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藩翰譜
四上/本多
忠次が、祖父縫殿助正忠、最初に御方に組みして先陣し、牧野兄弟、既に討たれて、吉田の城に向ひ玉ふに、正忠、城の東門お攻め破て城お落す、援よりまた田原の城に向ひ玉ふには、正忠おのが伊奈の城に迎へまいらせ、御酒奉て賀しまいらす、
家に伝ふる所は、此時御肴お進むとて、池なる水葵の葉に盛りてまいらせしに、次郎三郎殿、〈○徳川家康祖父清康〉御覧有て、立葵は正忠の家紋なり、此度の戦に、正忠最初御方に参りて勝軍しつ、吉例なり、賜らんと仰ありて、これより御家紋とはなされたり、されば岡崎随念寺に、自讃し玉ひし御画像に、立葵の紋お画がヽれき、今にありと申なり、また徳川殿〈○家康〉の御時、高力摂津守忠房が母に、伊奈の本多の事、尋仰られしに、三河国の本多は、伊奈お以て嫡流とす、されど昔より当国に其数多き本多の人々、伊奈の本多の外に、一城おも領し候ものはさぶらはず、二郎三郎どのヽ御時に、祖父にて候者にこそ、紋おば望ませ玉ひし御事も候つれと申しヽといふ、忠房の母は、正忠の孫にて、忠俊が娘なりき、ある人のいひしは、上野国新田の庄に、ふるき目貫髪掻小刀の柄に、葵の丸の紋あり、これに因て思ふに、葵の丸は、初より新田の家紋にやあらんといふ事あり、是また一説なればこヽに附す、