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葵御紋考
御紋の事は、御家の御秘要なれば、容易に論判議定すべき所にあらず、然るに古より葵の御紋につきては、本多酒井の両家より、捧るの二つおのみ是非の論有て、他の評に及ぶ者なし、予管見古書にくらし、何ぞ能此事の実証お得べき、但諸書に散在せるお見るに、諸説の異儀紛々として分明ならず、〈○中略〉家紋は貴賤共に最要なり、既に諺にも、一子の争ある時、其胞衣お水上に浮洗ふとき、家紋現出すと雲り、されば猥に附紋するものに非ず、況や御当家の御紋の事おや、〈○中略〉茲に於て猥にしるす事にはなりぬ、
関氏蔵書雲、応仁之頃、実熙〈○藤原〉上洛之時、自其国中小士奉送之、故任三河守賜口宣、〈中略〉信光家督後移岡崎、文明十一己亥年七月十五日、夜攻安祥、此時酒井五郎親清父子三人、率来四拾余人、而丸盆水葵三、如鼎置之各引渡、以熨斗勝栗昆布、盛葵葉上祝言申、泰親悦曰、自今以後、親清之可家紋旨、依之丸之内三葵為酒井定紋、此時三河三分一領之雲、又雲其後又奉之、〈○中略〉
謹按ずるに、酒井氏其始渡辺党成べし、三河国には一類多し、其後境村に住て、染戸お業とせしより本姓おはぶきける歟、多門氏の譜にも、酒井多門と一姓にて、三星お家紋とせるにて、渡辺 成お知べし、其後親氏君入婿となり給ひし後、醤草お本紋と定められし、〈此事末に出すべし〉若本文のご とく、泰親君より酒井〈江〉葵お賜りなば、其以前は泰親君何お御家紋となし給へるや、いぶかし き事也、
三河国岩津妙心寺は、崇岳院殿〈信光入道〉の開基、長沢の祖備中守親則の菩提所と定め、母堂真常院殿も同葬なり、然るに当寺尊牌に五七の桐お附けさせらる、右尊牌古彫往古物にして、慶長以後の物とは見えず、然れば其頃は桐おも御紋とせられしにや、〈○中略〉
其後立葵おも用い給ひしにや、本多家譜に雲〈膳所〉本多縫殿介正忠、先祖山城加茂社職也、依以立葵為家紋、岡崎二郎三郎清康君、被攻吉田城主牧野伝蔵、田原御出勢之節、正忠奉迎入伊奈城、進御酒、献御肴之節、池中之水葵葉盛之、次郎三郎君、御覧之曰、三之葵者、正忠之家紋也、今度之合戦、正忠最初参味方、而後為勝利、為吉例、依被為給受之旨仰、差出之、御満悦而別為御家紋雲々、仍岡崎随念寺御自讃御画像、被絵立葵之紋于今存、右葵取之地名、花池申伝、
此趣正忠之男、助大夫忠俊女、高力土佐守正長室、同摂津忠房母、言上同断也、
又或本多家譜雲、世俗曰、立葵之紋、本多家度々依武功、神君御所望、御請曰、無憚之由、然者可葉計附御意有之、三葉之葵御附流布、亦当時自賀茂社有葵献上、又本多元賀茂之社職雲々、家譜之本、並藩翰譜等同此、此条前文に見る時は、清康君の時より、御紋に立葵お用い給へるにや、然るに 今のごとく丸に改めさせらるヽ事、何れの時といふべきか、殊に夫迄は何の御放なりと雲ふ 事明らかならざれば、御当家の御紋、清康君より始まれるやうに思はれて、其以前わかちがた し、又後の儀による時は、東照宮の御代、初めて附けさせらるヽと見えたれば、神君の御時迄、御紋なかりしやうにて、同じ本多の家にての二説、猶いまだ詳ならずといふべし、〈○中略〉
三州岡崎能見郷の松応寺は、瑞雲院殿〈贈大納言広忠卿〉の御廟所なり、此御廟所は、東照宮の御造営なり、此瑞籬の内外共に、剣銀杏の御紋お附けさせらる、〈○図略〉
御当家にて、此御紋用いさせらるヽ事、諸書に未見えず、然るに天文中、御造営の御玉垣其外に附けさせらるヽこと、其故よしあるべき歟、按ずるに銀杏に夷朝の訓あれば、四夷お悉く征せられ、各御旗下に朝せしむるの御祝兆にて、銀杏お愛し給へば、御父霊お御崇信の時附けさせられしにや、〈○中略〉又按に葵の御紋は、種々の説あれば、剣銀杏は御家の御替紋にて代々遠く附けさせらるヽ故に、御尊父の御霊前、並神さり給ひし御霊屋前に植えさせ給ひけるにや、