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永享後記
享徳三年十二月廿七日、結城成朝大将にて、鎌倉西御門管領の亭へ打て入る、成朝が家人に武州牢人金子と雲もの兄弟あり、大手より責入、憲忠お害し、御首取てまいりたり、成朝大によろこび、則かれらおめしつれて、御所中へ参上仕、御白洲に畏る、彼兄弟は無位の者なれども、憲忠の御首、平地置べからずとて、たヽみお敷、彼両人お置、公方両人の名字お御尋あり、成朝かねことは不呼、結城家老の多賀谷が同名に被成、多賀谷とめす、此両人則常陸の下妻の多賀谷の元祖、祥永祥賀兄弟是也、依之多賀谷の庭たヽみと雲は此由来也、又家の紋に、瓜お用し事も、彼の首に敷きたる紙に、瓜のごとく血の付たるゆへに、此家のもんに定る也、