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名は彼此お甄別する所以にして、凡そ宇宙の間に在るもの、一として名あらざるはなし、而して人に在りては、姓氏お以て其族お分ち、名お以て其人お分つ、
人の始て生るヽや、之に名お命ず、童名幼名是なり、冠 〓に及び、改めて更に名お加ふ、是お実名と雲ひ、又名乗(なのり)と雲ふ、而して上古は文字の音訓お問はず、純然たる国語お用いしが、後には多く支那の熟語お用いるに至る、
実名の外に仮名あり、又喚名(よびな)と雲ふ、此名は輩行お以てするあり、太郎二郎の如し、加ふるに姓氏お以てするあり、善太郎藤二郎の如し、官制の大に紊るヽに及びては、官名お以て仮名とするあり、善右衛門藤兵衛の如し、然れども女子及僧徒の官名お以て仮名とすることは、中世より起りて某中納言某少納言など雲ふ、
名お択ぶに嘉名お以てすることは古よりあり、後世には其字の反切の吉凶お判して之お命ずるあり、又名お賜ふことも、古に起りて、別に名お命ずるあり、己の偏名お賜ふあり、又父祖の名お襲ふことも古きことにて、偏名お用いると、全名お用いるとの別あり、名の上の一字お累世襲ふものお通字と雲ふ、
名お避くることは、上古には絶えて無かりしかど、中世より起りて、天皇或は皇子皇女、及び外戚大臣の為に其姓お改めしことさへあり、後世には又文字お欠画することあれども、儒生輩の支那人に倣ひて、私に行ひしに起る、
唐名、又反名と雲ふ、蓋し遣唐使の彼土に往来せし時、我方にて命ぜし名お以て鄙俗と為し、其名の字の音に近きもの等お以て、之に代へしに起りしならん、而して唐名には其名の半分お写すものあり、全分お写すものあり、半分なるは、匡房の訓まさふさなるお、満昌の二字お以て、まさの二声お写し、明衡のあきひらなるお、安蘭の二字お以てあらの二声お写せるが如し、全分なるは、清行お居逸と為し、忠臣お達音と為せるが如し、
字は、あざなと雲ふ、古くは二郎三郎の如き、仮名お字と称せしが、中世に至り、大学生には字お命ずることあり、別に一箇の文字お択び、冠せしむるに姓の一字お以てしたるもの多し、徳川幕府の時には、儒学の大に行はるヽに随ひ、文墨に従事するものは、名の外に、字及び号お以てしたり、然れども禅僧の字、及び号は、是より前にあり、又俳家に俳名あり、俳優の輩に芸名あり、
諡には国風漢風の二種ありて、天皇皇后に係れるは、載て帝王部に在り、人臣の諡は、中世より生前太政大臣たりしものに限れることにて、古来数人に過ぎず、藤原不比等が右大臣お以てし、藤原師賢が権大納言お以て諡お賜ひしは特例なり、又剃髪せしものは、諡なきお以て例とす、徳川幕府に至りては、尾張水戸二藩の如きは、私に諡お制し、儒者にも門人子弟の輩の私に諡お贈りしものあり、而して将軍は、薨後に院号あれど、朝廷より賜ひし所なれば、中世の諡に似たり、抑院卜は同牆あるものヽ謂にて、官廨及び浮屠の所居の称なり、凡そ天皇脱屣の後の御所お後院と称す、故に天皇に諡お上らぬ世となりては、平生の御所号お以て某院と称し奉りしが、後には前皇后にも院号お上ることあり、是お女院と称す、此類並に帝王部に詳なり、蓋し人臣の院号は、藤原兼家お法興院関白と称せしに起る、法興院は其建つる所の寺の名なり、後世に至りては、此お以て殆ど諡卜為し、平人といへども、死後必ず之お称し、或は生前に剃髪して、其院と称するものもあり、
女子の名は男子に異なり、某売(め)と雲ひ、某姫(ひめ)と雲ひ、某刀自(とじ)と雲ひ、某子(こ)と雲ふ、其尊称には某前(まへ)卜雲ひ、某御前(ごぜん)と雲ひ、其方(かた)と雲ひ、某御方(おんかた)と雲ひ、某御(ご)と雲ふ、後世は専ら仮名(かな)の二字となりて、対称には、上におの字お加ふ、而して女子は、中古に在りては、喚名(よびな)のみお伝へて、実名の明ならざるもの多し、其中にて実名の伝はれるは、多くは貴女なれども、貴女に在りても幾もなし、是れ女子は、人に対して、己が名お告げざりしに由れるならん、
僧の名も、大に常人に異なり、僧となるときは必ず姓氏お棄て、従前の名お改めて、二字お用いて音読す、支那人に倣ひしなり、