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比古婆衣

倭建命の御名の唱
倭建命の御名、やまとたけると称し奉たりしなるべし、其は古事記に、此命熊襲建(くまそたける)兄弟お殺し給ふ時、〈○註略〉弟建が言に、於西方、除吾二人、無建 強人、然於大倭国、益吾二人、而建男者坐祁里(ましけり)、是以吾献御名、自今以後、応称倭建御子雲々、故自其時称御名謂倭建命雲々、〈○註略〉と見えたるによりて知られたり、〈○中略〉さて此皇子の御名、書紀に日本武、また余古書どもに倭武とも書きて、その武字は例にたけ、またたけしなどこそは訓め、たけるとはよむまじきがごと思ふ人もあるべけれど、書紀に梟帥と書るお、既く古事記に、建字お用ひられたるにも准へしるべく、また猛字も武字と同じ義として、つねにたけ、またたけしなどよめど、書紀に五十(い)猛神(たけるの)と書るなど、おもひ合すべし、さて又たけるてふ称の義は、記伝に、威勢ありて、猛き者お雲ふ称なりと説はれたるがごとし、〈○中略〉さて景行紀四十三年、此命の崩給へる処に、日本武尊、化白鳥雲々、因欲録功名、即定武部也、と見えたる式部お、古訓にたけるべとあり、又出雲風土記に、出雲郷、所以号健部者、纏向檜代官御宇天皇〈○景行〉勅、不忘朕御子倭健命御名、建部定給、爾時神門臣古禰、健部定給、即健部臣等、自古至今、猶居此処、故雲健部、また姓氏録に、建部公雲々、日本武尊之後也、など見えたる建部も、みな多祁流倍(たけるべ)と呼べるなるべし、