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燕石雑志

苗字
往古は、人の名も今には同じからで、或は文字の音おもてしるし、或は文字の音と訓とおもて併せしるし、その人の随意記しにければ、文字の数も定らず、五十四代仁明天皇の御代より、今の代の人の如く、多くは文字の訓お取て、二字お用ひることにはなりぬと、神皇正統紀にしるされたり、将安康雄略以降、三公百官、草木魚鳥おもて名とするありけり、その十が二三おいはヾ、雄略より、推古の間、大臣に真鳥(まとり)、馬子(うまこ)等あり、仁賢天皇の四年鮪(しびの)臣謀反によつて誅に伏す、元明天皇の和銅元年四月、従五位下柿木猿(さる)卒、考謙の御時に、柿本枝成、文徳の御時に、橘百枝、南淵永河、清和の御時に、卜部乙屎麻呂、下野の屎子等あり、みな是国史に載る所也、この余、木兎、魚養、犬養、堅魚、真鯨等、勝ていふべからず、亦数十代の御代お経て、正親町院の永禄の比より、諸国の武士等に、奇異なる名おほかり、その十が二三おいはヾ、山中鹿〈の〉介幸盛、秋宅庵〈の〉介、寺本生死〈の〉介、猶道理〈の〉介、薮中 〓〈の〉介、小倉鼠〈の〉介、山上狼右衛門、〈以上尼子家臣〉この余、朝倉家の十八村党、河野家の十八森党、大内家の十本杉党、吉見家の八谷党、尼子家の九牛士、里見家の八犬士、枚挙に徨あらず、こはみな軍陣に臨て、名告るとき、敵にわが名おおぼえさせん為也とぞ、戦世には武備あまりありて文備なし、その名の野なる心ざまの猛きさへ推てしらる、