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茅窻漫録

郎字
此邦の人、太郎二郎など名づくる事、古今常例なり、其始は日本紀に、皇極帝四年、蘇我入鹿お、君太郎といふよりこと起りて、光孝帝の三子お太郎二郎三郎と称し奉るも、唐朝の例に倣ひたまふにや、唐太宗は、高祖の二男にて二郎と称し、玄宗は叡宗の三男にて三郎と称するがごとし、後世多く其例に倣ひて、源頼義の三子は、太郎二郎三郎と称し、佐々木兄弟五人、太郎定綱より五郎義清まで皆おなじ、漢土も五郎六郎は、唐朝より俗おなす事、隋唐嘉話に見えたり、〈○中略〉大抵唐朝より専らにいひし事と見ゆ、此邦も其頃は唐朝と数往来せしゆえ、彼土の称呼にならひ、遂に俗おなせりと覚ゆ、源氏物語に、大殿の太郎君といひ、次郎三郎、肥後国の大夫 〓にすかされてなど書きたるも、滋野貞主お滋二と称し、在原業平お在五と称するも、其例皆おなじ、