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古事記伝
二十
継体天皇の御子、茨田(まむた)大娘女は、御母茨田連氏の女、用明天皇の御子当麻(たぎま)王は、御母当麻蔵首氏の女なる、これらは御母の姓お取〈れ〉るか、〈○中略〉さて又やヽ後には、其乳母の姓お取て、御子の御名とせられし御制も有りき、文徳実録に、先朝之制、毎皇子生、以乳母姓為之名焉、故以神野為天皇諱と見えたる、此は嵯峨天皇御名神野と申せるは、御乳母の姓なりしことに就て雲るなり、抑此制は、何れの御世より始まりしにかあらむ、上代よりも、希々には此例も有〈り〉つるか、詳ならず、欽明天皇の御子たちなどよりして、姓と思はるヽ御名の多く見ゆるは此例か、桓武平城などの御子たちの御名は、男女みな此なり、さて彼の嵯峨天皇の御名の外に、乳母の姓お取られたる証の物に見えたるは、天武天皇、初大海人(おほしあま)皇子と申せしに、その崩りましヽ時に、大海宿禰蒭蒲といひし人の第一に誄奉りしことの見えたるは、御乳母の氏族と聞え、孝謙天皇、御名阿倍と申せるに、阿倍朝臣石井といふ御乳母見え、平城天皇、初御名小殿と申せるに、安倍小殿朝臣堺と雲御乳母見え、桓武の皇女、朝原(あさはら)内親王の御乳母に、朝原忌寸大刀自と雲ふが見えたる是らなり、