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授業編

名字号
さて吾邦にありても、縉纓侯伯、すべて尊貴の御上は余が論ずるところに非ず、士庶の上にていはヾ、実名と雲あり、仮名と雲あり、実名お名乗ともいふ漢土の名にや擬すべき、仮名は俗名とも俗称ともいふ、漢土の字にや擬すべき、然れども邦域異なるより、称謂も相違あれば、とくとは符合しがたし、何れにも学事にたづさはらぬ尋常の人は、右の実名と仮名と二つにて事すめども、僅に学事にあづかる人は、右の実名仮名の外に、名字号のせんぎありて事多きお、詩文に用る名字お以て、仮名実名おかぬる人あり、此に余が論説あり、たとへば伊藤東涯の名は長胤、字源蔵とせられしは、長胤の名お以て邦俗の名乗実名とし、源蔵の字お以て邦俗の仮名俗称とせり、名は自ら称するところ、字は人の方より称するところなれば、平日の書状手紙のとりやりに、人の方より源蔵〈東涯の書牘に、源臓又は源蔵とも書せり、〉と称するはよけれども、自身の方より源蔵と書するは、漢土の式にかなはず、松岡恕庵などは、名お元達として、此方の仮名俗称おかね、字お成章として、此方の実名名乗おかねられしなり、東涯とは俗にいふ、あちらこちらなり、されば平居の書状手紙のとりやりに、自身の方より元達と称すること、亦漢土の式にあはず、東涯恕庵の二先生は、博識の大儒なれば、杜撰なることのあるべきやうはなけれども、上にいへる如く、邦域の異にして、俗尚称謂の相違あれば、何としても不都合なり、されば名字にて実名仮名おかねん事は、とにもかくにも穏やかならざれば、世上一般の実名仮名にて俗用お弁じ、別に詩文のために、漢土人に擬せる名字お命じおくがよしといふ人あり、此も名の二つあるは、いかヾといへば、実にいかヾなれども、やむ事なくば其説に従ふべきにや、