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続日本紀考証

広融売 融当依と本永正本金沢本堀本及類聚国史作虫、下効此、大日本史註雲、紀略託宣集及後紀延暦十八年文雲、広虫改狭虫未知熟是、
○按ずるに、和気広虫の流刑に処せられし時、還俗せさせられて別部狭虫と名づけられし事、日本後紀に見えたり、然れども続日本紀には、其時の詔お挙げて、法均〈我〉名〈毛〉広融売〈止〉還給とありて、原名に復せしめしに止まりしが如し、法均は尼たりし時の名なり、然らば狭虫は、其後更に之お貶せしものか、又按ずるに、広融売お諸本広虫売に作れり、然れども此に拠りて遽に融お以て虫の誤とすべからざるが如し、続日本紀お検するに、旧刊本に融に作れるものお、一本に虫と為せるもの多し、佐味朝臣融麻呂、忌部首融麻呂、船連融麻呂、小野朝臣、小野融女、若湯坐宿禰子融の融の如き、一本に皆虫とあり、説文に拠るに融、炊気上出也とあれば、融もむしと訓して、互に通ぜしならん、又我邦の書には、虫お虫に作れるもの多し、支邦人に依りしなり、隷弁、虫の字の註に、唐扶容、〈後漢霊帝光和六年〉徳及草虫、按説文、虫読若虫、即虫字也、 〓觿雲、蛇虫之虫為虫豸、其順非有如此者、他碑虫皆用虫、とあるにて知るべし、