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玄同放言
下/人事
姓名称謂
不祥の名は、よになきにしもあらねど、いと酷しとおもふは村岡悪人なり、類聚国史〈八十七刑法部〉桓武天皇延暦十七年二月壬子朔、美濃国人村岡連悪人、配流淡路国、以停留群盗侵犯百姓也、この悪人も、悪名お賜ひしにあらざるか、おのづからなる名にしあらば、その謫罰、名詮自性ならずや、保元建保の間、悪左府、悪七別当、〈源為朝家臣〉悪右衛門督、悪源太、悪七兵衛、悪禅師など、みづから如此名告れるにあらず、時人その暴悪非義お憎みて、悪字お被せしなり、又天正中に、赤井悪右衛門あり、こは自称なるべし、又按ずるに、源義平ぬしの外に、悪源太と呼ばはれし武士あり、江濃記に、土岐氏の事お記しヽ段に、伯耆十郎頼藤、〈正慶中の人なり〉頼藤弟悪源太頼遠、数度高名比類なし、おごりのあまり、康永の比、院の御所の御幸に参り会ひ、狼藉して身失ひしかば、其弟周崔坊入道頼明に、美濃の守護お給はるといへり