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源平盛衰記

兼家季仲基高家継等拍子附忠盛卒事
村上帝の御宇、左中将兼家と雲人あり、北方お三人持たれば、異名には三妻錐(みつめぎり)と申けり、或時此三人の北方一所に寄合て、妬色の顕れて、打合取合髪かなぐり、衣引破りなんどして、見苦かりければ、中将は穴六借とて、宿所お捨て出給ぬ、取さふる者もなくて、三三日まで組合て息つき居たり、二人の打合は常の事也、まして三人なれば、誰お敵共なく、向ふお敵と打合けるこそ咲(おか)しけれ、是も五節に拍子おかへて、取障る人なき宿には、三妻錐こそ揉合なれ、穴広々ひろき穴かなとはやしけり、太宰権帥季仲卿は、余に色の黒かりければ、人黒帥とぞ申ける、蔵人頭なりける時、それも穴黒々黒き頭哉、如何なる人の漆塗らんと拍子たりければ、季仲卿に並で御坐ける、基高卿の舞れけるに、此人余に色の白かりければ、季仲卿の方人と覚しくて、穴白々白き頭哉、如何なる人薄押けんと、拍し返しける殿上人もおはしけり、右中将家継と雲人、祖父の代までは時めきたりけるが、父が時より氏たえて、有か無かにて御坐けるかと、下臘徳人の婿に成て、舅の徳に右の中将に成給たりけり、此も五節に絶ぬる父雲に及ばず、祖父の代までは家継ぞかし、左曲の右中将とぞ拍子たる、貧き者たのしき妻おまうくるは、左ゆがみと雲事なれば、角拍子ける也、花山院入道太政大臣忠雅の、十歳にて父中納言忠宗卿に後れ給ひ、孤子にておはせしお、中御門中納言家成卿の播磨守の時、婿に取て花やかにもてなされければ、是も五節に、播磨米は木賊か、椋の葉か、人の枱(きら)お付るはとぞ拍子たりける、