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玄同放言

姓名称謂
諱名之制、これお六史に考ふるに、書紀〈廿八〉孝徳天皇の大化二年八月癸酉の詔に見えたり、しかれどもこの御宇には、なほ厳密の制度おはしましヽにあらず、続紀〈六〉元明天皇の和銅七年六月己巳、若帯日子姓、為触国諱、〈成務御諱〉改因居地賜之としるされし、これぞ名お諱むはじめにはありける、かくて桓武天皇の延暦四年五月丁酉、〈続紀卅八〉平城天皇の大同元年七月戊戌、嵯峨天皇の大同四年九月乙巳、淳和天皇の弘仁十四年四月壬子、〈平城以下類史廿八〉仁明天皇の天長十年七月癸巳、〈続後紀二〉数朝その制度おはしまして、上の御名、及先帝の御諱に触るヽものは、百官の姓氏、諸国の郡県、及人民の姓名お改め易へさせ給ひにけり、抑平城の朝〈元明〉のはじめより、稍漢学闡けしかば、これらの事も、すべて漢法に効はせ給ひしならん、そが中にいとも異なりと見奉るは、仁明のおん時に、贈太政大臣橘朝臣清友公〈嵯峨天皇皇后、橘朝臣嘉智子父、仁明天皇外祖父、〉の為に、姓の橘字さへ諱ませ給ひし事あり、〈○中略〉唐山にて名お諱むよしは、春秋左氏伝桓公六年九月、その他の史にも多く見えたれども、名は諱めども、姓に触るヽお諱むことなし、況至尊、その外戚の為に諱み給ふ事は、和漢に例あるべくもあらず、