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燕石雑志

苗字
曲礼に、名子者、不以国、不以日月、不以隠疾、不以山川とあるは、平人のうへおいふにあらず、異朝の法に、天子の諱に等しき文字ある物はみなその名おあらためらるヽ故なり、秦の始皇帝の諱政とまうせしかば、正月お端月と唱へ、漢の呂后の諱雉とまうせしかば、雉お野雞と改められたるたぐひ是なり、天朝には、上代に天子の諱の文字お避るといふこと聞えず、もしさる制度あらば、天地日月なども、かならずその唱お改めらるべし、中葉より唐山の法則にならはせ給ひて、淳和天皇の御一名お大伴とまうせしかば、大伴氏お伴と呼ばせ給ひしかど、隻大字のみお避て、政正同音なりとて、正月お端月とする如く、厳密なる制度に及ぼす、亦染殿大后、わかくおはしましヽとき、撫子御(なでしこのご)とまうせしかば、後に撫子花(なでしこ)お改めて常夏(とこなつ)と唱へたるよし、祐盛抄大鏡裏書等お引て、榊原玄輔老人いひけり、国史筆お絶て後は、またさる制度聞えず、後醍醐院の建武のころ、正成義貞朝臣には、その功遥におとりたりける高氏ぬしに、天子御諱の一字お賜りて尊氏と唱へしめ給ひしは、つや〳〵こヽろ得がたき事也、士おなづけんとの御謀略なりとも、先王の善政にはそむかせ給ふなるべし、中興の御志、得遂給はらざりけるもうべならずや、