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古今要覧稿
姓氏
為字不成
文書の内、御諱の字にあへば、其字お書しながら闕画して、他字に替るに及ばずと雲事は、唐の制なり、西土にて、漢の世には、諱に替て行ふべき字お予め定しお、唐に及て斯の如く改しは、猶簡易の法、従べき事なり、是お為字不成と雲ふ、六典に見えたり、夫より以来今にいたるまで因循せり、西土に在ても、二名お偏諱せよと雲る制は聞えざれど、世々偏諱せるは、其俗の礼に過たるにて、盟て学ぶべからざる事なり、皇国律令格式の設、偏に唐の制度によりて取捨せられし所なり、然るに此闕画の事のみ行れざるは、固より皇国の俗に従て、訓お以避よとありし故なり、それも日本紀一部には、諱お避る制なく、却て御名お以、国郡の名、官職の名、姓氏の名とせられしあり、是お御名代(みなしろ)と雲、続日本紀より避諱の制ありて、今日に至る、但し江家次第に、六典お引きて、闕画の沙汰ありしかども、行はれしにはあらず、然るに近世朝廷に闕画の事行る、故実にはあらざるなり、此事何の年よりと雲事おしらず、おもふに陽明家〈○近衛家〉に、六典お上木せられて、普く玩ばれしより始りけるにや、往昔六典おしらざるにはあらず、和漢制度差別ある事、仰ても猶余ある事也、一度闕画行れてより、避諱の事、両途に分る、又おのづから偏諱せるに至る、歎ても猶歎べき事也、東都〈○江戸幕府〉には幸に未だ此制あらず、中古以来、公武制お殊にす、京都に拘らずして、後来此制なからん事お希のみ、