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歌俳百人集
俵の船積
船積は田原氏、大湊舎と雲、天明の頃、狂歌の大人にて、そのかみ上手の名お取し人也、
萩乃屋裏住
裏住は久須美氏、通称白子屋孫左衛門、江戸の産也、〈○中略〉狂名お窓雪院大屋の裏住と改め、四方〈○大田蕈〉の門下と成、
三陀羅法師
三陀羅は千秋庵と号す、神田お玉け池に住し、狂歌おもつて世にしらる、
六樹園飯盛
飯盛は石川氏、名雅望、字五老、狂名宿屋のめしもり、通称ぬかや七兵衛、後に五郎兵衛とあらたむ、
烏亭焉馬
焉馬は、中村氏、名英祝、通称和泉屋和介、初号野見てうなごんすみかね、別号桃栗山人、柿発斎、一号淡洲楼、本所相生町に住いして、家業足袋職なり、幼年より狂歌お好み、〈○中略〉狂名と号し、おかしき名おつけたるは、此人お始とす、
大木戸黒牛黒牛は越前敦賀の産にして、幼き時東都に来たりて、〈○中略〉狂歌お好み、其頃の大人浜辺の黒人が門人となり、狂名大木戸の黒牛と号す、芝高輪に住しゆへ、師家よりかくとなづけしよし也、
元の木網
木網は名正雄、幼名喜文、後に通称金子喜三郎といふ、武州松山の産なり、狂歌お以て世に名高し、手爾乎波の学びに通じて、詞の本末一巻おあらはす、妻も同じくざれ歌おたしみ、狂歌の名お智恵の内子と号、
祭の和樽
和樽は鈍々亭と号、狂歌の大人也、
杏華園蜀山人
蜀山人は太田氏、名蕈、字子耜号南歩、後に南畝と改む、通称直次郎、晩年七左衛門と改む、から倭のふみにわたり、博識なり、生質狂歌お好み、朱楽菅江の門に遊び、狂名寐惚先生、また四方の赤良と雲、