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傍廂
前篇
箒木(○○) 坂上是則歌に、そのはらやふせやにおふる箒木のありとはみえてあはぬ君かな、此歌によりて、源氏箒木巻は作りたるなり、其原伏屋は信濃国にて、美濃の国界なり、遠くみれば、箒おたてたる如く高く見え、近くよりて見れば、何の木ともわかず、さればありとは見えて、あはぬ由にいへり我〈◯斎藤彦麿〉幼き頃、三河国矢矧の大橋の上よりみれば、西の方に大きなる箒木の如き木あり、里人の雲く、彼は伊勢国朝熊山の木なりといひ伝へたりとぞ、幼き頃に見聞きして、今に忘れず、いとよく晴れたる日ならでは見えず、街道行程三十余里あり、むかし景行天皇の御代に、筑後の御木郷に大歴木(くぬき)ありて、朝日には肥前の杵島おかくし、夕日には肥後の阿蘇山お隠しヽよし書紀にあり、仁徳天皇の御代に兎寸川の西に大木ありて、朝には淡路島に及び、夕日には高安山お越ゆるよし古事記にあり、又肥前佐賀郡にも大樟樹ありて、朝日には杵島、蒲川山おおほひ、夕日には養父郡草横山おおほひしよし風土記にあり、播磨国明石にも、井口に大楠ありて、朝日には淡路島おかくし、夕日には大倭島根おかくすとも風土記にあり、近江国栗太郡に大柞木(たらのき)ありて、朝日には丹波国にさし、夕日には伊勢国にさすと今昔物語にあり、さる事なきにあらず、我若かりしころ、紀伊国熊野に大榎ありて、二またに諸木竹など数十株生ひ出でたるよし、紀の殿より御申し届になりて、絵図さへ来たるお見て人々普くしる所なり、