[p.0073][p.0074]
玄同放言

飛騨三枝(○○) 飛騨国大野郡に三枝郷あり、〈三枝みつえだと唱ふ〉郷内に五け村あり、その三け村お、上切、中切、下切と唱ふ中切村に〈高山より里半許〉巨樹あり、程遠き処といふとも、この樹の見えざるはなし、さる古木なれども、今なほこれお伐ることお許さず、もし人ありて、斧お用ふれば血流れ出づ、且祟ありといひもて伝へて、その落葉だも拾ふことなし、これお犯せば、かならず瘧お患むといふ、唯樹下に起臥する乞児等は、その枯枝お折りもしつ、落葉おあつめて、焚くことあれども、露ばかりも祟おうけず、渠等はよるべなきものとて、神の許させ給ふにや、この樹の為に日お覆はれて、田甫の為には不便なれども、田ぬしもせんすべなしといふめり、よりて里人等、この樹おおほの木(○○○○)と呼び効したり、おほの木は大之樹なり、或は訛りて、王の木ともいふとぞ、この樹の高大約一十二三丈、幹の周囲は七尋にあまりつべし、そが根より凡二丈許あがりて、大枝三本にわかれたり、その二枝は周囲二尋に及ぶべく、又一枝は二尋半三尋にも近かるべし、これよりして梢まで枝毎に三叉にわかれて、絶えて増減あることなし、その葉は樫に似たれども、何の木といふことおしらず、郷お三枝(みつえだ)と唱ふること、全くこの木に因りてなり、和名類聚抄〈国郡部〉下総国千葉郡の郷名に三枝あり、又加賀国江沼郡の郷名にも三枝あり、この両郷は佐伊久佐と訓せたり、これらも亦木によりて、その郷に名づけしならん、彼のおほの木のある処お森谷といふ、樹下に溝あり、これより東おくげ反畝といふ、くげの義未詳、反畝より上お、王の垣内(かいと)といふ、方言に、凡稲田によろしき処、苗頃などすべき処お、かいとといふとぞ、こは辛未の夏月、飛騨高山の二の町なる、二木長右衛門来訪し日、この物語に及べるなり、〈◯中略〉又老樹の枝のわかるヽよしお詠みたる歌あり、そは〈左のよみ人本書のまヽなり、紀郎女なるべし、〉 古今六帖〈第六〉いづみなるしの田のもりの楠の千枝にわかれて物おこそ思へ きのらう女夫木抄〈廿九〉いづみなる信田の森の千枝ながら玉のうえ木にかざる白雪 前大納言隆季卿 この信田なる楠は、その枝の繁きによりて、千枝にわかるヽと詠みたるなるべし、彼の飛騨のおほの木は、その葉樫に類すといへば、枝のわかれしよしは似て、その物は非なるべし、