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倭訓栞
前編二十九末
まつ 松はもつと通ふ、久しきお持の義也といへり、〈◯中略〉松お貞木といふは西征賦の貞松によれり、秦皇松に大夫の官お贈りしは史記に出たり、朱文恭の話に、今抗存す、大さ十囲ばかりと、〈◯中略〉安永二年豊後鶴崎の八幡宮修造す、大木の松枝たれて妨に成おもて、折べき談に定れり、其夜右の枝自然によりて常のごとくなれり、其社の地形お筑く時は、五尺計蛇集りて土お持たり、永禄十一年八月廿四日津の国住吉の松樹六十六株、故なくて根より堀抜たり、神主津守の国豊此お奏す、それより十日過て九月三日にうるかんばてれん、鳥羽四塚へ来りぬ、呉書に松は十八公也とも、湖海新聞に木公は松也とも見えたり、