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東雅
十六樹竹
檜ひ〈◯中略〉 李東璧本草に見えし所は、柏葉松身者檜也、其葉尖梗亦謂之栝、今人名円柏以別側柏と見え、通雅にも円柏即刺柏、所謂檜也と見えたり、されど円柏といふは即今俗にいぶきといふ物にして、側柏といふは亦俗にこのてがしはといふ是也、古より我国にして、ひのきといふものにはあらず、正字通には、今檜葉似油杉、幹如柏、其兼柏葉者名二色檜、爾雅説文皆雲、檜柏葉松身、然今檜葉四出、葉半作束、半如柏葉、其木堅実、外白内朱、謂之松身、非是、或松葉柏身庶幾近似と見えたり、すべて是等の説の如きも、正しく檜といふもの知れりとは見えず、正字通に二色檜といふものは、即混柏此にびやくしんといふものこれなるべし、むかし、我師なりし人の教へて、松葉柏身といひ、柏葉松身といふが如きは、松は其幹曲れるものにして、柏は其幹直おいふ、其葉の細麁長短、また各々相別れて同じからずとぞ雲はれたりける、今此義に因りて、此にひのきといふものお見るに、爾雅説文に見えし所の如くにはあらず、さらば正字通に、松葉柏身庶幾近似といひし其謂ありとこそ覚ゆれ、此事おも稲若水子に正したりしに、此にひのきといふものは、即扁柏也といひき、されど俊水朱子は、檜は則ひのき也、扁柏は檜の類也といひしといふなり、ただ如何にもあれ、古より雲ひつぎし如くに、ひのきといふものに檜の字借り用ひたらむ、即是我国の方言也、あながちに漢人近世の説により従ふべき事とも思はれず、 其言長くして事煩しけれど、我おもふ所おもこヽに註して、後の正しなむ事お待ちぬべし、爾雅本草お始として、漢人諸家の説に見えし所の如き、亦此にいふ所おもて併せ見るに、まづ爾雅に檜お柏葉松身とせし者は、後の伝写訛れるにや、正字通に雲ひし如くに、松葉柏身に作るべし、円柏といひしはいぶき也、側柏といひ、又手掌柏などもいひしはこのてがしは也、二色檜といひ、混柏ともいひしは、びやくしんなり、扁柏といひしはひばの類也、されば漢にして今に至ては、此に檜といふ者の如きは、無きが如くにも見えぬれど、日本寄語に、檜は丟那雞(ひのき)と見えしは、此国にして太古之初より、人居屋材となすもの、漢字お伝得し後に、檜字読てひのきとなせし即是也、また前にも註せし如くに、或人癸辛雑識に、倭国所産新羅松、即今之羅木也と見えし事お、新羅松は剃牙松なり、此方処々これ有りといふ、新羅松の如き、此方にもありぬれど、本国の人の所居、悉くこれおもて屋材とすべきほど、多かるものにはあらず、彼にして日本羅木といふ事の聞えし始は、宋高宗南渡の後に、日本羅木おもて翠寒堂お建給ひしと、南宋宮殿記に見えしこそ始なりけれ彼にして羅おもて呼びし木も少なからず、陸璣詩疏に、〓一名赤羅と見え、陸佃埤雅にも〓一名羅赤羅白羅の二種ありと見え、析江通志〓州府志閩書等に見えし欏木、又癸辛雑識に新羅松お羅木といひしが如き是也、翠寒堂の材、夫等の物に異なるが故に、其物おわかつべきためにこそ、日本羅木とはいひたるらめ、その羅といひしは、埤雅〓一名羅といふ事お釈して、其文細密如羅故曰羅也といひしが如くに、此樹其文細密加羅なりければ、かく名づけいふ、又此樹歳寒お凌ぎて、色お落さヾるものなれば、其材お得て建られし堂お、翠寒とは名づけられしなるべし、さらば其羅木といふものは、我国にいふ所のひのき即是なりとこそ見えたれ、