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東関紀行
ほむの川原にうち出たれば、よもの望かすかにして、山なく岡なく、秦田の一千余里お見わたしたらんこヽちして、草土ともに蒼慌たり、月の夜の望いかならんと床しくおぼゆ、茂れるさヽ原の中に、あまたふみわけたる道ありて、行末もまよひぬべきに、古武蔵の前司道のたよりの輩に仰て、植おかれたる柳も、いまだ陰とたのむまではなけれども、かつ〴〵まづ道のしるべとなれるもあはれなり、もろこしの召公奭は、周の武王の弟也、成王の三公として、燕と雲国おつかさどりき、峡のにしのかたお治し時、ひとつの甘棠のもとおしめて、政おおこなふ時、つかさ人よりはじめて、もろ〳〵の民にいたるまで、そのもとおうしなはずあまねく又人の患おことはり、おもき罪おもなだめけり、国民挙りて其徳政お忍ぶ故に、召公去にし跡までも、皮木お敬て敢てきらず、うたおなんつくりけり、後三条天皇、東宮にておはしましけるに、学士実政任国に赴く時、州の民はたとひ甘棠の詠おなすとも、忘るヽことなかれ、おほくの年の風月の遊びといふ御製おたまはせたりけるも、此こヽろにや有けん、いみじくかたじけなし、かの前の司も此召公の跡お追て、人おはぐヽみ物お憐むあまり、道のほとり往還の陰までも、思ひよりて植おかれたる柳なれば、これお見む輩、皆かの召公お忍びけん国の民のごとくにおしみそだてヽ、行すえのかげとたのまむこと、その本意はさだめてたがはじとこそおぼゆれ、 植置しぬしなき跡の柳はら猶その陰お人やたのまん