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古事記伝
三十一
歴木は、書紀景行の巻に、到筑紫後国御木、居於高田行宮、時有橿木、長九百七十丈焉雲々、天皇問之曰、是何樹也、有一老夫曰是樹歴木(くぬき)也雲々、天皇曰是樹者神木、故是国宜〓号御木国(みけのくに)とありて、公望私記曰、按筑後国風土記曰、三毛郡雲々、昔者倲木一株生於郡家南、其高九百七十丈雲々、櫟木与倲木、名称各異、故記之、〈倲字は棟お写誤れるか〉仁徳巻に、当荒陵松林之南辺、忽生両歴木(くぬぎふたもと)、挟路而末合、これら久奴木(くぬぎ)と訓り、〈或人景行天皇此木に依て、其地お御木国と名けられたれば、久奴岐は国木の意なるべしと雲るは非なり、〉かくて和名抄には、本草雲、釣木一名鳥樟、和名久沼木、また本草雲、挙樹和名久沼木、日本紀私記雲、歴木〈釣樟と挙樹と、共に久沼木と記しながら、別に出せるは名同くて異物か、はた別に出せるは誤か、〉字鏡には櫪櫟同久沼木とあり、古書どもに歴木と書るは櫪の意にて、例の偏お省けるなるべし、〈漢ぶみにも櫪お通はして歴と作ることあり、又櫪と櫟と通はし書る例もあり、されど同物には、非ず、〉さて久奴岐は、今も久奴岐とも、久能岐とも雲木なり、〈契冲くぬぎは、今もくのぎと雲て、つるばみのなる木なりと雲り、橡(つるばみ)お久奴木の実とせるは違へり、そは和名抄にも、橡櫟実也とあるに依れるなれど、橡は伊知比の実なり、久奴木の実には非ず、伊知比お櫟と書り、此字に依て混ふべからず、〉されど此記書紀の歴木は久奴木に当て書りや非ずや、決め難き故あり、〈玉垣宮段なる、葉広熊白梼の下、伝廿五の廿葉にも雲る如く、凡て魚鳥草木などの名の漢字は、古は人の心々に当て書つれば、彼此と異なること多ければ、漢名に依ては定めがたし、されば此歴木も櫪とは聞ゆれど、其は何樹にあてたりや慥ならず、か〉〈風の土記に棟とあるも、書紀の歴木と伝の異なるにはあらで、たゞ記者の当たる漢名の異なるにこそ、〉万葉十二に、度会(わたらひの)、大河辺(おほがはのべの)、若歴木(わかひさぎ)、吾久在者(わかひさならば)、妹恋鴨(いもごひむかも)、〈此は旅の歌にて、吾此旅の日数の久くなり、なば、家なる妹が吾お恋しく思むかとなり、〉此上句は吾久(わがひさ)と詞お畳む料の序なれば、歴木は必比佐岐(ひさぎ)なること著ければなり、〈本には此おもくぬぎ(○○○)と訓たれど、さては若と吾と詞の畳なるのみにて、久に縁なし、此歌は久と雲こと主たるお思ふべし、又同四に佐保河の涯(きし)之官能(つかさの)小歴木莫(しばな)刈焉(かりそね)雲々、此歴木おばし(○)ばと訓るまことに然訓べし、こは何木にまれ柴なるお雲なり、故小字お加へて知せたり、然れども其お歴木としも書る意は、一種の木お思へるなるべけれど、何木とも知がたし、河岸に多かる木なるべし、〉比佐木(ひさぎ)は同六にも久木生留清河原(ひさきおふるきよかはら)などもあれば、何辺も由あり、今も川辺などにもよくある木なり、和名抄に唐韻雲楸木名也、漢語抄雲比佐木とあり、かヽれば此記書紀などの歴木も、比佐岐ならむも知がたけれど、姑く書紀の訓に依る、