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地方凡例録

一壱里塚始之事 上古は一里之法不定、里より里迄お一里と雲しと也、依而間数には悉く長短有り、中華は六丁お以一里とす、本朝も是に効ひ、六丁お一里と定たる由雖申伝、時代不詳、其遺風に而今も奥州は六丁一里之所多し、多賀城坪之石碑之里数も六丁お以一里とす、中比人皇百七代正親町院之御宇、天正年中、三拾六町お以一里と定らる、一歩六尺、一段六間、一町六拾間、一里六百間、此坪数六々お伸て三十六丁一里と極りたる由、其頃一里毎に塚お築しめ、印之木お植させらるヽ時、松杉お可植哉と、時之武将信長公〈江〉伺しに、松杉は類ひ多ければ、余之木お可植と有しお、役人榎と間違ひ、榎お可植由村々〈江〉申付しにより、今一里塚の木、都而榎なる由、世事談に見ゆれ共、一里三拾六丁に定りたるは、信長公代にも有べけれ共、一里塚始り、国々〈江〉築立、榎お植たるは、台徳院様〈◯徳川秀忠〉御治世、慶長十七壬子年、大久保石見守奉行として、従江戸諸国〈江〉道中筋一里塚お築せらる、下掛り江戸町年寄樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門両人〈江〉被為命、同年二月初旬始之、五月下旬迄に諸国一里塚悉成就す、仍而塚上に印の木お植ては如何と、石見守伺し処、一段可然との厳命に付、何木お可植哉と重而伺しに、よい木お植よとの命お、石見守、榎と間違ひ、都て榎お植たる由、或書にも見へ、又樽屋奈良屋掛りたる事は、有徳院様〈◯徳川吉宗〉御代、御府内、其外国々諸事御糺明之砌、享保十乙巳年八月、町奉行中山出雲守、大岡越前守〈江〉町年寄共由緒書差出たる内に、一里塚成就之上、拝領物等迄有、委くは江都官鑰秘鑑に詳なり、