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太平記

主上御夢事附楠事 主上〈◯後醍醐〉思食煩せ給て、少御まどろみ有ける御夢に、所は紫宸殿庭前と覚へたる地に、大なる常盤木あり、緑の陰茂て南へ指たる枝殊に栄へ蔓れり、其下に三公百官位に依て列坐す、南へ向たる上座に、御坐畳お高く敷、未坐したる人はなし、主上御夢心地に、誰お設けん為の座席やらんと、怪く思食て立せ給たる処に、鬟結たる童子二人忽然として来て、主上御前に跪き、涙お袖に掛て一天下間に暫も御身お可被隠所なし、但しあの樹陰に南へ向へる座席あり、是御為に設たる玉扆にて候へば、暫く此に御座候へと申て、童子は遥の天に上り去ぬと、御覧じて、御夢はやがて覚にけり、主上是は天の朕に告る所の夢也と思食て、文字に付て御料簡あるに、木に南と書たるは、楠と雲字也、其陰に南に向て坐せよと、二人童子教へつるは、朕再び南面の徳お治て、天下の士お朝せしめんずる処お、日光月光の被示けるよと、自ら御夢お被合て、憑敷こそ被思食けれ、夜明ければ当寺衆徒成就房律師お被召、若此辺に楠と被雲武士や有と御尋有ければ、近き傍りに左様名字付たる者ありとも未承及候、河内国金剛山の西にこそ楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名お得たる者は候なれ、是は敏達天皇四代孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりといへども、民間に下て年久し、其母若かりし時、志貴毘沙門に百日詣て、夢想お感じて設たる子にて候とて、稚名お多門とは申候也とぞ答へ申ける、