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倭訓栞
前編十佐
さくら 桜おかりてよめり、沈休文詩に、山桜発欲然、註に果木名、朱色如火然也と見え、王荊公詩に、山桜抱石映松枝、司馬温公詩に、紅桜零落杏花開と見えたるは別品なるべし、神代紀に、木の花開耶姫ありて、伊勢朝熊の神社に、桜樹お其霊とせし事、古記に見えて、桜の宮とも称せり、西行の歌あり、神名秘書の苔虫神も、桜大刀自の神体形石に坐り、苔生たるおいへり、思円上人文永十年の記に、小朝熊の宮の坤の方隅にそびえたる巌ありて、其上に桜木あり、高さ三尺ばかり、此木往古已来かれず、是桜大刀自命の神体也と見え、一宮記に駿河の浅間も木花開耶姫とす、富士も同じ、伊勢朝明郡に布自神社、桜神社相並び、甲斐国の金桜神社もまた此神お祭れり、さればさくらは開耶の転ぜるなりといへり、或は咲簇るの訓義とす、きむ反く也、花木の中にも、開みちてうるはしきは桜に及ものなし、よて後世にいたりては、花とのみいへば桜の専称ともなれるなり、貫之歌に、 桜よりまさる花なき花なればあだし草木は物ならなくに、清少納言も絵にかきておとる物といひ、宋景濂は、恐是趙昌所難画と作れり、西土万国にも此種絶てなしといへり、