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古今要覧稿
草木
紫宸殿左近桜 左近の桜といふは、紫宸殿の前東方にあり、平安城草創の時よりの樹といへば、〈禁秘抄〉桓武天皇の御時より有しなるべし、天徳の火にやけたるは草創よりの樹にや、其後康保元年十一月植られしは、そのとしに枯たり、その二年正月植られたるは、三月花宴せさせ給ひしといひ、その後度々焼て、堀川院の御時に植られし樹、順徳院の御時までは残りしとなり、〈同上〉左近衛大将桜の東に列すべきよし、〈延喜御記〉さだめられしより、この桜かるれば近衛大将これおうふる〈藻塩草〉ことヽはなりしなるべし、かく度々の火にやけし桜にて、八重なりし時も、一重なりし時も有しなるべし、然るお兼好法師は必一重なるべきよしいひたり、世に南殿といふは、もとこの左近の桜なるが故に、しか名付しといひ伝へたれば、八重なりし時も有しなるべし、こヽに載たるはいづれの御時の桜にや、定かならざれども、その一重なりし折にうつしたりし種なるべし、次に出せるもおなじく、この桜の種なり、うつし植たりし人の心のまヽに、紫宸殿左近桜、平安左近桜と名付たるのみにして、おなじく左近の桜なり、たヾうつし植られし折によりて、その樹はおなじからざるべし、また或人曰、嵯峨清凉寺地蔵堂の前に桜あり、この桜お平安桜(○○○)と呼べり、時平公の植られし桜なりと雲、又貞信公のうへられし木なりともいへり、しかれば此花お写せしもの歟、その花お見ざれば決しがたし、佐藤成裕〈平三郎、水戸殿御家人、〉曰、この平安左近桜と称するもの往々あり、人の珍重せしところ、古への絶品にしていやしからず、南都へ移し植れば、弁大にして一朶七八茎にいたる、北地に植れば花小なりといへども色猶よし、