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有徳院殿御実紀附録
十六
吹上の御庭に桜楓の苗多く叢生したるお御覧ありて、小納戸松平専助当恒〈後伊賀守〉に、よくやしなふべしと命ぜられしにより、別に花欄お設け、懇につちかひ水すヽぎけるに、いくほどなく其苗五六尺ばかりになりしかば、広尾(○○)、隅田川のほとり(○○○○○○○)、又は飛鳥山(○○○)に植られし、其中にも飛鳥山は享保五年九月より植はじめて、凡桜二百七十株、楓百本、松百本植られしに、桜はわきて年お逐て枝葉しげり、花の時は燦煉として美観おなせり、其地は小十人のなにがしが采邑なりしお、外にうつされ、元文二年二月十日、山おば王子権現の祠僧金輪寺宥衛にたまはりて、永く社頭に寄附せらる、もとの祠は紀伊国熊野権現おうつしたるゆえに、公〈◯徳川吉宗〉御発祥の地の鎮守お、はやくよりいはひそめしことおおぼしめされ、かくはなされしなるべし、其つまびらかなることは、成島道筑信遍に仰せて、山上にたてられし碑文に記せり、此碑石もかねて熊野山の石お引て吹上の御庭におかれしお用らる、さて此神の伝おも信遍につくらしめらる、又山の麓に滝野川といへる、左右の岸に棣棠おあまた植、山上には桜に交へて松数十株おうえしめ、山より西の田づらには菜おつくらしめられしかば、桜の咲ころ木間よりのぞめば、菜の花こがねおまきたるやうに見えて、其景色いはむ方なし、これ府内近きほとりに、名勝お開き玉ふべしとの御事とぞ、〈一説に享保のはじめまでは、毎春花の時、貴賤みな寛永寺にまいり遊興せしほどに、まく打まはし酒くみて、らうがはしかりければ、祖廟近きほとりにて、もしや猥りなる挙動あらん恐れなきにあらず、是府内に遊楽の地乏しきゆえなりとて、飛鳥山お開かれしに、諸人それよりこヽにつどひあつまり、寛永寺はありしに比すれば、大にものしづかになりしとなり、〉