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玉勝間

南殿の御階の桜橘 橘樹者、本自所生託也、遷都以前、此地橘大夫家之跡也雲々、南殿樹事、番記録雲、村上御字、天徳三年十二月七日、南殿坤角、新移栽橘樹一本〈高一丈二尺〉件樹、弾正尹親王東三条家樹也、依勅定奉之、右近将監已下掘之、或記雲、遷都之時、彼樹在所、称橘大夫者家後園也、件後園有橘、即南殿前、以賞玩、其後回禄之後、被栽彼東三条樹雲々、小一条左大臣記雲、橘本主、秦保国也、と見えたり、今後焼亡とあるは、天徳三年の焼亡のこと也、大槐秘抄雲、南殿の橘の木は、此京に、いまだ内裏たてられ候はざりけるさき、人の家の候けるが木にて候ければ、きられずしてなん候ける、殿上人は、南殿のおほゆかにて、枝ながらたちばなくひなどしけりと申候は、それはまことにや候けん、木は一定のふる木になんさぶらひける、