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農家益
後篇乾
総論 櫨、生蝋は何程一時に大坂へ入津したりとも、価の高下は大ちかひなきものにして、八口の早きものなれば、当時此櫨にまさるものあらじ、浪花にては蝋問屋仲間三十軒あり、各壱軒にて年中に金何万両の商ひする事とぞ、さも有べき事か、日本のうち、凡七八歩通は櫨お作らざる国なれば、其所へは皆大坂より積送る事也、其外晒蝋屋五十軒、櫨お潰して生蝋に絞る、絞り屋五拾軒、中買百軒荷著問屋と唱る仲間三十軒、廻著問屋と号る仲間三十軒有りて、唐物に続いて大いなる商ひ高のものにして、広大の事也、斯広きものお弁へず、己が鬢にぬり燭に灯し、常に其香にむせびながら、櫨は毒木抔と誤るは何事ぞや、茲に郡村の益となりし事お一二挙べし、豊後の国日田郡に川内村といえる小村あり、其村の庄官半蔵といへる人、凡五十年以前櫨は一村お助るの益樹なれば植べしと、小前の農家へ談合せられしかど、一円承知せざりしお、後年の宜しき事お申聞せ、おして空地野山、或は山畑井路の両端抔に植て、木数お家別に割付、手入肥し等自身見廻り、一子の如くせはせられしが、僅十年にみたざる内に、村入用お弁へ、十七八年にして総村御年貢の半お、櫨実の売得にてつくのひたると、予〈◯大蔵永常〉が父なるものに、半蔵物語りせられしと聞ぬ、いわゆる巍の西門豹、旱魃にくるしむ所ありければ、河水お引て十二の小川お掘穿ち、是お助けしめんとするに、民大いに田地のつひゆる事お煩苦せしかども、西門豹おもへらく、川お穿つの費はわづかにして、不作して、諸州の費る事は大いなりとて、つひに其川お成就して、百歳の後には其徳お美談せられしとなん、又同郡山田村といへる小村あり、善蔵といえる農事に心お用ける老農あり、享保七年の比、肥前の国に往て、櫨の仕立様其徳やうお習ひ、苗お求め来りて下畑に植ければ、近村の人迄も笑けるに、此人少しもかまはず、教への通に育しが、追々木も繁茂し実もなりて、少しづヽの得分お見ける比〈享保十七年壬子〉の秋、山陽南海西海蝗付て大いに飢饉しければ、その時笑ひし人々も家お捨て諸国にさまよひ、喰お乞たりしとなん、其年は櫨至て実登りよく、数千斤おとりて是お売、其価お以て米にかへり、飢饉おまぬかれしにより、殊に櫨は窮民お助るの大益ある事お感じ、壱人の子あれどもゆづるべき家督の減なければ、櫨お植る程の宝なしとて、櫨お仕立る事どもお草稿となし、窮民夜光の玉と号、一子常次へ譲られけり、又九州或国には国主より櫨お植べしと一同領内へ仰渡され、丘松山抔お伐りてうえ立られしかど、そのころは接木する事おしらず、実蒔のなりにて植付たりしが、元より雌木雄木の分別おしらざれば、実小さく肉薄くして、仕立に引たらずして、利分なきものとて伐捨て、既に止なんとせしに、接木に利方ある事お仕覚得し者得て、唐櫨〈櫨の大実なるお都て唐櫨と称す、琉球より来る故、唐はじと雲ならはせし物なるべし、〉実太く仁小く肉厚きお撰び、其穂お接取植弘しに、実蒔なりと違ひ、盛長も早く、一本も実生らざる木なく、利分大に見へければ、国中再び植弘めしにより、国中の蝋燭鬢付国産にて賄ひ、余分の生蝋、領主より御買上となり、大坂へ積登せ、御蔵物として、一け年の売高凡五千貫目余宛有よし承る、或は生蝋にて七八十万斤づヽ毎歳積登る国あり、是に准じ九州中国四国紀伊抔より多く作出せり、