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薩藩経緯記

貴国〈◯薩摩〉は黄櫨(はじ)甚多く、蝋お搾て他国に輸すも亦極火し、熟按に、初め日本には紅葉櫨(もみぢはじ)のみ有て、蝋櫨(ろうはじ)は無かりしお、今お距こと百六十年許前、延宝元癸丑の年、当藩に異国人来て種子お与へ、桜島小(お)川の地に植させ、蝋お搾ることお教しより、漸く諸国に弘り、今は江戸の都下も、赤羽根、牛込、阿武(あたけ)等の地に植ることヽは成れり、よく作るときは数多の蝋出て、信に国家の宝なり、且此物は気候の温なるお好む者にて、第十五番以下なる冷地に作るときは、培養の術お尽すに非れば実お結ぶこと少し、故に櫨お作る国々多しと雖ども、当国のよく成熟するに如く者なし、当国は培養お労せずとも、甚よく生長して実の生(なる)ことも、蝋の出ることも多きお以てなり、然れども当国の百姓は、櫨お作て実お採ることお嫌ふ者多し、何んとなれば櫨お作て実お採て、此お売ると雖ども、買上の直段甚下直にして、骨折損なるお嫌なり、又此お貴く買上て蝋お搾るときは、大坂表の仕切時価(しきりねだん)、他国の蝋より格外に賤お以て、櫨蝋局(やくしよ)の損毛多きこと有り、貴国の蝋は性合も宜けれども、他国の悪蝋よりも大坂の仕切恒に賤く、〈大坂の町人共姦計お行て、貴藩の官人お愚弄し、年々大利お貪ること下に詳に論ず、〉故に他国にては追々に此木お植え立て、培養に骨お折て生長せしむる事なる、貴藩の百性は此お邪魔にして、或は此お伐採て薪にし、或は実の成たるおも採ずして、徒に腐らしむること多し、歎息すべきの事なりける、太夫此等の事お熟察して、大坂傲倉(くらやしき)の改革すれば、国産の出ること漸々減ずるの患あらん、又奥羽関東北越等諸州は、漆樹(うるしのきの)子より蝋お搾る、漆蝋も上品なる者なり、漢土にては漆子より蝋お搾ることお知らざるが故に、本草お始て諸の物産書に、絶て漆樹子に蝋多きお論じたること見えず、唯櫨お植て蝋お搾お専務とす、貴藩の如く櫨に合応の土地は、能く其百姓お撫御し、法令お懇到にし、交易お明白にして、多く出さしむるときは、国益の大なるに論なし、然れども愚老〈◯佐藤信淵〉熟々永久の利お考るに、黄櫨お作るの利は、漆木お植るの長久なるに如ず、何んとなれば黄櫨は種子おまき苗お仕立るに、五六年も過ざれば実お結ぶこと能はず、既に実お結ぶことに為りても、僅十四五年の間お実の結べき盛として、其盛なる時と雖ども、年々一木にて五斗に及ぶ者は有ること鮮し、且実結初(みのりはじめ)しより二十余年も過るときは、其実漸々に減り三十余年に及びたる櫨木は、唯其枝葉のみ頻りに繁茂て実お結ぶこと益々減て、近傍田畠の作物の障害お為すお以て、此お伐て接穂するより外に致方あること無し、又漆樹は苗地お調置て、法の如く種子お蒔て、翌年に至て牡苗(おなへ)おば畠に移し植、牡苗おば三年目に畠に移植べし、且牡漆は実結ざる者なるお以て、漆液お掏採(かきとる)の料となすべし、又牝(め)漆の移植たるおば培養お懇到にすれば、三四年に実結初め、年お経るに従ひ、其実次第に多く為て、二十年も過るときは、一本に八九斗一石にも及ぶもの有り、四五十年お経たる木は、二石も三石も実結者ありて、何百年お経歴と雖ども、益々肥大繁栄して実お結ぶこと極て多、会津国の漆園には牛馬お覆ほどなる大木火しく有り、凡そ漆園お取立るは、養生掏(かき)の法お行て、液お採もの故に、実より蝋お搾べきのみならず、掏取漆汁も年々少からざるお以て、此亦一箇の国産お増加るなり、且漆園お取立て漆樹お早く成長し、実お早く結ばしむるの術あり、蘗芽(ひこばえ)お苗にして植立るときは、三年目より実お結び、培養の法お精密に行ふときは、十余年の間には五三斗の実お得るに至る、唯此蘗芽(ひこばえ)お植たるは老木に為ること早く、四十年にも及ぶときは、伐去て若木お植替ざることお得ず、然れども速に漆園お成就するには、此術おも亦錯(まじへ)行ふに宜し、且漆園櫨林(はじやぶ)等お開発するには、五箇の良法あり、此法お施行ふときは、百姓皆勇進みて此お作るが故に、暫時の間に其業成就す、所謂る五良法とは、法令お密にし、厚賞お与へ、懶惰お罰し、階級お賜り、罪科お贖しむ、即是なり、会津国は此中の三法お用たるのみにて、漆園成就して今世に至ては漆園の境内お潤沢すること、分国四郡の米穀よりも大なり、若夫れ土地お有もの、五法悉行はヾ、漆園櫨山楮林桑田等火しく繁栄することなるべし、〈漆お作の法、蘗芽(ひこばえ)お多生ずる培養の法等は、皆六部耕作の法に詳かに此お説き置たり、〉会津例は土用後に内撿し、十月中旬に撿視する法、及び村々主保(なぬし)の宅にて蝋お製せしむる法等、制度の宜きお得たり、櫨蝋等の制度も亦宜く此に則(のつ)とるべし、実に上下の利益なり、所謂る会津藩の制度は、漆木おば御用木と称して、何村には幾千本、何郷には幾万本と精き記録有て、〈其内幾百本は百姓何右衛門が植たる木に、幾十本は百姓何右衛門が植たる木と、悉く漆木に預り人あり、〉毎年季秋漆子撿見の前に、村々の主保里長(むらおさ)等百姓お帥て、其村内の漆木子お内撿し、先漆木に番附お定め、一番の漆木の実は、或は五斗或は三斗、又二番の木は、六斗或は八斗などヽ、木板に書て根に立置くなり、其後漆園吏これお巡見し、一村の内にて一本づヽお撰て其子お量り、閲実して以て其村の総高お決定す、〈若し内撿三斗と記したるが、量て二斗あるときは、一村の漆の子皆此例にて、総高の三分一お減少して上納す、万一内撿より吟味の木の子多きときは、亦此例にて総高に増して上納す、〉而て其子お漆預の百姓に預けおき、其石高に従て蝋に製して上納せしむ、〈漆子一升に付き蝋二十匁宛お納む、糟おば其預り人に賜る、即ちこれ古来より会津の定法なり、〉蝋お搾には百姓順番お立て、主保の宅にて此れお製す、〈国君より蝋搾の諸具と、及び蝋お製する廨舎おも建置て、百姓に便りし、其年の極月上旬までに上納するお定法とす、〉此会津の良制度なり、〈此等の事、予が詳かなる筆記あるお以て、茲には此お略す、〉又蝋搾粕は馬お飼の妙物たり、始は焼(たき)物にしたる者なれども、我家にては甚此お宝とす、