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木芽説
茶といふものいとも上津代にはありとも聞えず、いづれのころよりか吾御国にはうえそめけむ、さだかにしるし伝ふるものなし、類聚国史に、嵯峨のみかどの弘仁といふ年のむとせの夏、近江国にみゆきまし〳〵て、滋賀韓崎など見そなはし給ふみちのたよりに、ちかきわたりの寺々にわたらせおはしましける時、梵釈寺の永忠大僧都、手づから茶お煮て奉られしに、みかどこれおいみじくよろこばせ給ひて、かづけものなど給はせつ、やがてそのみな月に五の内つ国おはじめて、近江丹波播磨などの国々におほせて、国ごとに茶おうえしめて、とし〴〵の貢ものにさだめ給へりしよししるされたり、わが御国にてこれお用ふること、こヽにさだかに見えたれば、世の人まづこれお引出て、此時おそのはじめといひ伝ふめり、〈◯中略〉かくのみ世お経つヽになきものともてはやさんには、かの弘仁のころ植そめられし国々より、其種おおちこちにもとり伝へて、あめのしたに茂くさかりにおひひろごりぬべきお、さしもあらざりしは、ふるき世には都人こそあれ、いなかうどらは、あながちにめで用ふべき物としもしらざりしにこそ、慶滋のやすたねが、三河国あおみの郡なる薬王寺といふてらにまうでて、そこに茶園薬園などあるよしいへるおみれば、まれ〳〵にはさる所も有しならめど、それはたひさしくはさかえざりしなるべし、かのはやうおほやけよりうえおほさせ給へりし国々にも、此木にかなふ所お得ざりしにや、またとヽのへいとなむわざやいたらざりけむ、ありしみさだめのごとく、とし〴〵のみつぎものヽ数にそなへてはめさずなりぬとおぼえて、延喜式の国々のみつぎのさだめどもの中にはしるされずなむありける、〈◯中略〉さればいつしかとその木だちもなごりすくなう枯うせて、つひにはさるものありとあぢはひしれる人だに、世にいとまれになりゆきしなるべし、さばかりおとろへはてけむお、葉上僧正〈◯栄西〉明恵上人とて、これもかれもすぐれたる人のおなじ世に出逢れて、ともにこれおこよなきものとめでたふとばれしより、ふたヽび世になべてもてあつかうやうにひろごりて、かくは今の世までにたえせぬものと成こし事、ひとへに此ひじりのいさおによりてなりけり、しかありしはじめは、かの僧正もろこしより、此種おおほくもて伝へられて、建久の二とせといふに、筑紫まで帰りつきて、背揮山といふ所にこヽろみにうえそめられしぞ、岩上茶といふものヽはじめなりける、〈◯中略〉この僧正いまだみやこにおはしけるとき、栂のおの明恵上人法問のために、建仁寺にしたしくおはせしかば、これお贈り給へる事ありき、そのかみ栂尾にて、いかなるものぞとくすしに尋ねとはれしに、しか〴〵の能おほかれども、わが御国には、おさ〳〵ある事なしとこたへしかば、さはめでたきものよ、おこなひつとむる法師ら、かならずのみてたすけおほかりぬべしとて、其種おかの僧正よりもとめえうして、はじめて栂尾にうえそめられしよし、上人の伝記にみゆ、このつたへにても其世のおもむきはしられたり、さてのち宇治の里におほしたてしよりなむ、あめのしたにたえてたぐひなきものはいできそめたるなりける、