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古今要覧稿
草木
呉竹呉竹は、古より仁寿殿前の北のかたに植られし竹にて、即淡竹(はちく)の一種、細小なるもの也、故に今俗またこれおさしてはちくといひ、漢名お〓竹、一名〓竹といふ、その高さ大抵一丈許にて、枝葉極めて繁茂し、其状頗る淡竹に妨仏たりといへども、毎節却て淡竹よりも密にして高し、順朝臣の文字集略お引て、〓は䈽に似て、節茂り葉滋きもの也と〈和名抄〉いひ、兼好法師、及び一条禅閤の説にも、呉竹はよの常の竹より葉細しと〈徒然草、榻鴫暁筆、〉いへるは即これなり、凡呉竹の名は、古今和歌集、竹取物語等にみえたれど、万葉集にはいまだその名お載ざるによれば、此竹の呉国より来れるは、平城天皇よりはるかに後の事なるべしと思ひしに、日本紀略に、弘仁四年、天下の呉竹こと〴〵く枯しよしみえたれば、その天皇よりも以前に此種の渡りこしものなるはしるし、されば呉竹台、河竹台お作られしも、そのはじめ詳ならずといへども、いと旧くよりの事なるべし、呉竹台の竹の枝お折て、臨時祭試楽の時に、実方中将の挿頭花に伐られし事は、古事談にみえ、その台に生ぜし笋お採て、これお石灰壇にて焼て奉りしは、清凉殿にて御酒宴の日なるよしも同書にみえ、また呉竹お以て、木燧及び杵箕等の台の足に作りし事は延喜式にみえ、人多く庭院に植おきて杖となし、或は格子の櫺子となすよしは、和漢三才図会にみえたり、今江都にては此竹お以て火に炙り、瀝お去て曝し竹となし、作簾家の用にそなへ、或は若竹お採て釣竿となし、其枝は別に縛束して、若竹おその柄とし、以て掃箒とす、其使用多きなり、扠日本紀略に、天下の呉竹悉く枯るといひしは、此竹のみ枯て、その余の竹は枯る事なき意なれば、本草弁疑に、寛文六年より本朝の竹悉く枯て、皆根お断つ、淡竹の外はかれずといへるに、その意全く同じければ、いよ〳〵古に呉竹と称するものは、即淡竹の類なる事、これにても押はかるべし、