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古今要覧稿
草木
漢竹漢竹は、和漢通名なり、江村如圭は漢竹伊予に生じ、以て桶に入るべしと、〈本草觿〉いひ、谷川士清は漢竹桶となすべきもの、豊後よりいづると〈和訓栞〉いへり、また相模の金子村に産するものこれと同種なるべし、おもふに此種は、蓋しま竹のその土地に応じてよく生育し、其幹極めて長大にして、囲み二尺余にいたるものにて、別種にはあるべからず、また竹譜詳録に、籠葱竹生羅浮山、因名羅浮竹、竹皆十囲といへるも、大略此類なるべしとおもひしに、籠葱竹は、恵陽志に、葉如芭蕉、大長及一丈といひ、番禺志に、籠葱竹、葉大如手、径二三尺といふ時は、これとは別種なり、扠佐藤成裕壮年の比遊歴せし時、肥後の小国といふ所より、二里ばかり山間の人家なき所お過て、豊後の肥田といふ所に行しに、その間に竹村あり、その名は忘れたれども、すべて其所はいと高き土山にして、其山頭に大竹幾万幹群り生じて、水田はなく、たヾ畠のみ少しはありといへ共、其畠にも夏の比はおのづから笋お生じて、抜とらざれば忽ちに竹薮となる、かく竹の多き処故に、土人の家居は皆竹お以て作れば、床はさらなり、柱も障子も、薪までも皆竹お用ゆるなり、そこの男女は終日竹の事にのみかヽりて、別に農業お勤むる事もなし、これは古よりの竹村なれば、三度の飯にも竹筝の乾したるお糧とし、小児の時より痘瘡も至て軽くして、壮健なる事世にたぐひなし、また別に悪病も煩ふ事なければ、医お頼む事もなしと、それおのみ土人はほこりがほに物語しけり、又笋お製するには、柔き比採て湯に浸し、或は蒸などして、日に乾し、用ふる時に水に浸し、煮て食するに、其味殊によろし、凡半里余も左右皆竹林にして、其道傍に材木お積みたるが如く、竹お切て積置、或は輪竹にして近国へ出し、また屋材の用に供す、凡かくの如く、竹の火敷ある所は、世にはまたとあるまじきなり、扠その家居のさまは、皆人々の巧にまかせて面白く作りしものなれば、中々に言葉には述難しといへり、和訓栞に、漢竹豊後より出るといへるは、蓋し此村の事なるにや、本朝俗諺志雲、相州西郡の内金子村〈さかわより二里半〉に、金子市左衛門といふ百姓あり、此薮の竹一尺八寸廻り、六七間の末にて一尺廻り程あり、薮はやう〳〵十間に廿間ばかり、一間に一本づヽあり、めづらしき竹薮なり、此竹所望すれば、最初の契約にて根からはきらず、三尺ばかり上より切て、切口に何か薬おぬり、竹の皮にて幾重も包み、大切にする也、