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古今要覧稿
草木
布袋竹(○○○) 〈琉球竹〉布袋竹、一名琉球竹(○○○)、一名虎攅竹(○○○)は、漢名お多般竹(○○○)といふ、此竹根上より二三節以上は、其節密なること凡五六節、或は八九節、其最密なるは十一二節に至る、其節或は斜或は正にして、毎節擁腫、宛も人面のごとく、或は鶴膝のごとく、或は蠐螬の如く、或は縮頸の鼈の如し、それより以上は節疎にて、節の状真竹に似て、上高く下低し、凡密節上より末に至りては、其節下に擁腫なきは此竹の常なれども、希には擁腫あるもあり、葉ははちくに似てやヽ長大にして繁し、その先二葉相対し、一葉はその下に付て、すべて三葉お一朶とす、姑の枝は、その擁腫おなす密節上よりして並び生じ、或は密節中、及び密節下よりも生ずるものあり、又はじめの枝独枝なるもあれば、その節に黄芽お含めるもあり、其枝お生ずる方は、竹身互に凹処ありといへ共、其正中少しく高く起りて、其凹処全く両道なり、此竹高さ八九尺より一丈許に至る、邦人従前此竹お杖とす、その質至て軽して雅趣あり、実に扶老の材なり、此笋状小なりといへ共、味衆笋に勝れたり、されども人多くこれお啖ふ事おしらず、又俗に武田竹(○○○)とよぶものあり、これは武田信玄存生の時、手づから杖お土にさし込置しが根付しものにて、今に其竹お節の所よりきれば、花菱の紋あらはに見ゆるといひ伝ふ、此竹の産する処は、甲斐国府中の傍なる信玄居城の跡なるよし、今松平越中守の大塚の下邸に、その種お移し植られしお親見するに、全く今の布袋竹なり、別種にはあらず、〈◯中略〉釈名布袋竹〈本草一家言、本草綱目啓蒙、〉此竹、節間円起突出、頗る画にかける布袋和尚の面のごとく、またその腹の如くなるによりて名づく、琉球竹〈大和本草〉此竹、もと琉球より来る、故に此名あり、虎攅竹〈和漢三才図会、大和本草、本草綱目啓蒙、〉按に、三才図会に、虎攅竹は俗称なりといへども、其名義に至りてはいはず、本草一家言に古散竹に作り、広大和本草には五三竹に作る、此竹の節、或は三或は五、相連れるによりての名なるよし、又古散竹はこれと別物なれば、たヾ音通にてその名お仮借せしのみなり、或はこさんは鼓山にて、閩中の地名なるもしるべからず多般竹〈竹譜詳録〉此竹、毎節極めて多般、故に名づく、 正誤和漢三才図会雲、虎攅竹、是暴節竹乎、按に、暴節竹は俗にこぶ竹といふ、即筇竹にして、皇朝にかつてなきもの也、本草一家言雲、鶴膝竹一名仏面竹、一名鶏髄竹、倭名布袋竹、按に、鶴膝竹と仏面竹とは、もと両種にて、また布袋竹とも異なり、然るお今三種混同して一つとなすものは誤れり、又鶏髄竹の名は、広群芳譜にみえたり、これも鶴膝竹の一名にして、布袋竹にあらず、本草綱目啓蒙雲、ほてい竹は漢名人面竹と〈本草〓言〉雲へり、按に、人面竹は、通雅によるに仏面竹の小なるものなれば、布袋竹とは別種なり、其状布袋竹は毎節擁腫する事人面の如く、或は鶴膝の如くにして、人面竹は両節の間突起する事人面の如く、また仏面の如きものなれば、もとより一種にはあらざる也、