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成形図説
十六/五穀
畠稲〈◯中略〉岡稲(おかいね)はむかし皇孫瓊々杵尊、襲の高千穂峯へ天降玉ひし時、深霧にぎさへに晦蒙(くらくおほひ)しお、稲穂おもて打撒玉ひしかば、忽に開明なることお得給たりしより、高千穂峯の名は出来けるなり、今其地に陸稲多く生るなどいふこと、日向風土記に載たり、〈◯中略〉さて其撒栽られしは陸稲にして、今の世に至るまで、霧島の地には歳々種お下さずして、自生の野稲多しといふことも、紀中の文にしるし、且はその地の民相伝へて、其種おしも霧島稲の名お存しけるは、少縁(おほろけ)ならぬ事なるぞかし、今に至るまで西州の農夫は、稲の初穂おもて必霧島神廟に献お、俗の恒となし来るも、所由あるおしるべし、此吾邦の陸稲世にあらはれし始なるぞ、按に西土のいにしへは、皆陸稲なりき、本草時珍雲、古者惟下種成畦故祭祀謂稲為嘉蔬、此陸稲の証なり、夫下種に成畦とあれば、泥淖の中に畦おなすべからざるにてしるべし、又詩周容に、豊年多稌とあるお、稌は稲利下湿と注せり、稲にしては下湿にこそうヽるお、かく分ていひしは、水田の稲といふことぞ、