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兎園小説
七/集
松前大福米いにしへより仁人義士貞婦孝子の天感によりて、或は米穀或は銭帛の、不慮にその家に涌出せし事、和漢にためし少からねど、正しく国史に載せられしは、書紀天智紀雲、三年冬十二月、淡海国言、坂田郡人小竹田身之猪槽水中、自然稲生、〈◯中略〉これらは遠く見ぬ世の事にて、いと疑はしく思ひしに、近ごろ松前の藩中に、よくこれと似たる事あり、その由来お伝へ聞くに、寛永十七年春二月廿二日、松前の家臣蠣崎主殿友広の家に、米数升涌き出でけり、是よりして或は一升或は二升、日々に涌出せずといふことなし、かくてこの年の夏四月下旬に至りて、その事やうやくやみしかば、友広あやしみ且祝して、大福米と名づけつヽ、主君公広朝臣に進上して、ことのよしおまうしヽかば、人みな驚嘆せざるはなし、主君すなはちその米数斗お受けとらして、一箇の瓶にこれお納め、又その事お略記せしめて、倉廩中に蔵め給ひ、その余の米は、皆こと〴〵く友広に取らせ給ひぬ、これより後の世に至り、不慮にその瓶おひらかせて、その米お見給ふに、絶えて虫ばみ朽つることなく、且遠からずゆくりなき吉事ある事もありけり、かヽりし程に、当主章広朝臣〈公広朝臣より八世歟〉家督の後、文化四年春三月廿二、日ゆくりなく松前の采地お召しはなされて、奥の伊達郡簗川へ移され給ひしとき、彼大福米おも簗川へ運送せしめ給ひしに、その米は近きころ迄、もとのまヽにてありけるに、このとき見れば、虫ばみ朽ちて、米粉(こヾめ)の如くになりしもの、既になかばに及びしかば、その朽ちたるお篩ひ袪て、そのまたき米おのみふたヽび瓶に納めさせて、簗川におかせ給ひき、かくて文政元年の冬十一月廿一日、松前家の勘定新役の者、倉廩中なる米穀お展撿することあるにより、大福米の瓶お見て、未だその事おしらず、則これお主公に訴ふ、主君雲々と説き示させて、封おきらせて見給ふに、曩に篩ひわけしより、十年にあまれども、一粒も損ずることなく、あまつさへいたく殖えまして、瓶七八分目になりにたるお、章広朝臣見そなはして、且驚き且悦び、次の年の春のはじめに、その米お幾合か簗川より齎らして、老父君道広朝臣へ雲々と告げ給へば、老侯怡々斜ならず、昔よりして大福米の瓶の封皮おゆくりなく披く事あるときは、吉事ありとか伝へ聞きたり、しかるに吾家旧領にはなれし時、この米過半減少せしに、今又殖えしは、故こそあらめ、賀すべし〳〵と宣ひし、そのよろこびの余りにや、このころあわたヾしく使者お以て、己が父にその米一包お贈り給はり、この米は箇様にと、その来歴お示させて、件の瓶に附けおかれし旧記録、おちもなく写しとらして給はりければ、家厳しきりに嘆賞して、かヽれば今より遠からず大吉事あらせ給はん、いにしへもさるためしあり、その事どもは雲々と、則上に録したる天智紀おはじめとして、和漢の故事お抄録しつヽ、おさ〳〵ことほぎまいらせし、これよりの後わづかに三稔、文政四年の冬十二月七日に至りて、かのおん家にゆくりなく、こよなき大吉事あり、松前の旧領お元のごとくに返させ給ふ台命お蒙り給ひて、おなじき五年四月十五日に、志州章広朝臣父子〈是より先に嫡男千之助殿任官あり、主計頭になられたり、〉もろともに帰国の御暇お給はりて、同月廿八日に、江戸の邸お発駕あり、既にして五月下旬に、松前の城に著き給へば、君臣上下おしなべて、みなとし来の愁眉お開きて、笑坪に入らずといふものなし、これに依りて大福米おも、又松前へ運送せしめて、旧所の倉に蔵めらる、この時にして事毎に、公私となく大小となく、慶祥すべてあまりあり、かの大福米の名の、むなしからぬも奇といふべし、〈◯中略〉文政八年七月朔 琴嶺滝沢興継謹誌