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東雅
十三/穀蔬
粟あは〈◯中略〉 旧事紀に、粟黍は保食神の胸より生しと見え、古事記には大宜津比売神の耳より生しと見えたり、あはといひ、きひと雲義は不詳、按ずるにあはとはあわ也、はとわとは通はしてかく事、万葉抄にも見えたり、あといふは小(あ)也、日本紀釈に、あお小と釈せし是也、わといふは丸(わ)也、古語に凡物の円かなるお呼てわといふなり、古事記万葉集等に、丸の字読てわといひし是也、其実の小しきにして円なるおいふ、粱と粟との総名也、〈◯中略〉倭名抄に唐韻本草崔禹錫食経等お引て、粟は禾子也、あはといふ、〈◯中略〉梁は芑粟あはのうるしね、白粱米一名円米と註したり、此説の如きは、あはといふもの、一名にして二物なりと見えたり、広韻に粟は禾子也といひしは、我国にしてあはと雲ひしものヽ事おいひしにはあらず、彼国の古にありて、凡穀米の殻あるものお皆称して粟といひ、また其苗より実に至るまで、皆称して禾といひければ、粟は禾子とはいひし也、〈◯註略〉我国にしてあはといふものは、彼国にしても、古の時は粟と雲ひけり、漢代より後に至りて、始て其実大きくして毛長きものお粱といひ、〈今の俗におほあはといふもの是也〉実細にして毛短きものお、粟といひしに、〈今の俗にこあはといふもの是也〉後には又皆通じて粟といふ事、我国の如くにぞなりける、此事詳に李東璧が本草に見えし也、さらば倭名抄に、粟の字読てあはといふ事はあしからず、是等の委曲お註するに及ばずして、唐韻の註お引き用ひしは然るべからず〈後深草院宝治元年十一月、西国の米穀お、宋国に渡す事お停止の事、宣下せられしお、権大納言藤顕朝卿の頭弁にてありし時に、粟米と書下されしお、権中納言藤定嗣卿、これも其時に参議にて、あはのみとは何ぞと雲ひて嘲けられし事によりて、たがひの争ひになりし事の如きも、古より其訓義の詳ならぬが致せし所なるなり、〉又朮お呼びてきびのもちといひ、粱お呼びてあはのうるしねといふが如きも、如何あるべき、黍といふは即稷の粘する物、今俗にもちきびといひ、朮といふは、即粱と粟との粘する物、今俗にもちあはといふ物也、詳なる事は、李東璧本草に見えたり、