[p.0880][p.0881]
農稼業事後編

玉蜀黍(○○○)の弁先年豊後国岡の城下に遊びしとき、町家にて玉蜀黍〈西国にて唐きびといふ、東国にては唐もろこしといふ、畿内にてはなんばきびといふ、是なんばんお略していふなるべし、〉の実お、多く桝もて俵にはかりいるヽお見て、其人に問しかば、答ていへらく、此実は同国鶴崎〈鶴崎は此岡より十三里にして海辺なり、細川侯の船に乗りたまふ所なり、〉に出して、伊予国宇和島に送り遣すなり、彼地当年不作にて、米穀すくなきによりて、かしこへ送らんとて、諸所より鶴崎へ出す、石数凡三千石に及べりといへる故、左ほどの玉蜀黍何れより作り出すと又問ければ、答て、是は此近在の至つて悪地にて、稗などさへ出来がたき土地より作りいだせりといふ、予〈◯大蔵永常〉其とき思へらく、東国は土地広く人すくなくして、手余りの田畑、ならびに田畑にもならぬほどの地多かるべし、是等の土地に作りて、飢饉の備へともなし、又常に製法して食とせば、大きに助となるべし、