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大和物語

なにはにはらへして、かへりなんとする時に、このわたりに見るべきことなむあるとて、いますこしとやれ、かくやれといひつヽ、このくるまおやらせつヽ、家のありしわたりお見るに、やもなし人もなし、いづかたへいにけんと、かなしうおもひけり、〈◯中略〉しばしといふほどに、あしになひたるおとこの、かたいのやうなるすがたなる、このくるまのまへよりいきけり、これがかほおみるに、その人といふべくもあらず、いみじきさまなれど、わがおとこににたり、これお見てよく見まほしさに、このあしもちたるおのこよばせよ、あしかはんといはせける、さりければ、ようなきものかひ給とは思ひけれど、しうののたまふ事なればよびてかはす、車のもとちかくになひよせさせよ、見んなどいひて、この男のかほおよくみるにそれなりけり、いとあはれにかヽるものあきなひて、よにふる人いかならんといひてなきければ、ともの人は、なほおほかたのよお哀がるとなん思ける、かくてこのあしの男に、ものなどくはせよ、物いとおほくあしのあたひにとらせよといひければ、すヾろなるものに、なにかものおほく給はんなど、ある人々いひければ、しいてもえいひにくヽて、いかで物おとらせんとおもふ間に、したすだれのはざまのあきたるより、この男まもれば、わがめににたり、あやしさに心おさめて見るに、かほもこえもそれなりけりと思ふに、おもひあはせて、わがさまのいといらなく成たるお、おもひはかるに、いとはしたなくて、あしもうちすてヽ、はしりにげにけり、しばしといはせけれど、人の家ににげ入て、かまのしりへにかヾまりおりけり、この車よりなほこのおとこたづねていてこといひければ、ともの人、手おあかちてもとめさはぎけり、人そこなる家になん侍けるといへば、此おとこにかくおほせ事ありてめすなり、なにのうちひかせ給べきにもあらず、ものおこそは給はせんとすれ、おさなきものなりといふ、ときに硯おこひてふみかく、それにきみなくてあしかりけりと思にもいとヾなにはの浦ぞすみうき、とかきてふむして、これお御車に奉れといひければ、あやしと思ひてもてきて奉る、あけて見るにかなしき事ものににず、よヽとぞなきける、さてかへしはいかヾしたりけんしらず、くるまにきたりける衣ぬぎて、つヽみてふみなどかきぐしてやりける、さてなむかへりける、のちにはいかヾなりにけんしらず、あしからじとてこそ人のわかれけめなにか難波の浦は住うき