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無名秘抄

一雨の降ける日、或人のもとに、おもふどちさしあつまりて、ふるき事などかたり出たりけるついでに、ますほのすヽき(○○○○○○○)といふは、いかなるすヽきぞなどいひしろふ程に、ある老人のいはく、わたのべといふ所にこそ、このことしりたるひじりひとりあるときヽ侍しかども、いまだ尋きかずといひ出たりけり、登〓法師その中にありてこの事おきヽ、詞ずくなになりて、又とふこともなく、あるじにいふ様、みのかさちとかしたまへといひければ、あやしと思ひながらとりいでたり、物がたりどもきヽさして、みのうちきわらぐつさしはきて、いそぎ出けるお、人々あやしがりて、そのいはれおとふ、わたのべといふ所へまかるなり、年比いぶかしく思ひ給へしことお、しれる人ありと聞て、いかでか尋ねにまからむといふ、おどろきながら、さるにても雨やめて出たまへといさめけれど、いでやはかなきことおのたまふかな、命は我も人も雨のはれまなど待べき物か、なにごとも今しづかにとばかりいひすてヽいにけり、いみじかりけるすき物かな、さてほいのごとく此所へゆき、たづねあはせて、とひきヽて、いみじう秘蔵しけり、このこと第三代の弟子につたへならひ侍ける、此薄のこと同じさまにてあまた侍也、ますほの薄まそおのすヽきますうの薄とて三品あり、ますほのすヽきといふは、ほのながくて一尺ばかりあるおいふ、かのますかヾみおば、万葉集には十寸鏡とかけるにて心うべし、まそおのすヽき(○○○○○○○)といふは、真麻の心也、俊頼朝臣よみ侍る、まそおの糸おくりかけてと侍るとよ、糸などのみだれたるやうなり、ますうのすヽき(○○○○○○○)とは、まことにすはうなりといふ心なり、ますはうのすヽきといふべきお、ことばお略していふなり、色ふかき薄の名なるべし、是古集などにたしかにみえたることはなけれど、和歌のならひ、かやうのふることお用ひるも、又よのつねの事也、人あまねくしらず、みだりに是おとくべからず、