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農商工公報
十八号
水戸蒟蒻 蒟蒻の生根塊は磨砕して食料となすべく、又粉末にして遠方に送り、製して食料蒟蒻となすべく、或は凍蒟蒻とし、或は糊に用ふる等の利ありて、需用も亦多し、各地多少の産あれども、最も著名なるは茨城県常陸国久慈郡のものおもて第一とす、同郡中尽くこれお産するにあらず、其一部なる保内郷と称する四十二け村の産に係れり、保内の地は須藤、月居等の高山ありて、其山脈起伏して、平地極めて少く、磐城国より来れる久慈川山間お紆廻して東南に注ぎ、村落多くは此川に沿ふて散在し、水陸の田畑も至て少く、且砂石甚多くして、他の作物に適せざりしかば、居民の頼て以て生活する所のものは、全く蒟蒻にあり、しかるに斯る僻地に拘らず、此産の起りしより保内の富みは、郡中に甲たるに至れり、いつの頃より蒟蒻お植え始めしか、年代未だ詳かならざれども、古くよりこれお耕作せしものヽ如し、されども当時は全く根塊の儘粥ぎしのみにて、利益も甚薄かりしならん、天保初年の旧記お閲すれば、土根六俵〈一俵十二貫目〉の相場金壱分とあり、此お以てもその一班お窺ふに足るべし、今お距ること七十余年前即文化年中、同郡〈◯久慈〉諸沢村に中島藤右衛門といへる農夫あり、此諸沢は保内郷の東に在る一村にて、蒟蒻お産せしが、彼根塊の運搬不便にして、需用の広がらざるお憂ひ、種々に工夫お凝らし、遂に粉末に製することお発明したり、其法は秋季に及び根塊お採収せば、清くこれお洗ひ揚げ、外皮お去り、大庖丁もて厚さ凡二分程に切りて片となし、三尺余の篠串に貫き、天日に乾して之き砕き、水車に掛けて粉末となすなり、此製次第に広まり、保内に於ても皆これに倣ひ、遂に一方の産おなしたり、其後金蔵〈姓氏詳かならず〉といふものあり、藤右衛門が製法に改良お加へ、今の製造は復これに進歩お与へたるものなり、水戸藩にては、初より蒟蒻粉製造お保護し、販路も為めに開けたりしが、一時粗製濫造の弊お生じ、大に声価お墜し産業も衰へんとせしおもて、同藩は其弊お矯めんが為め、同郷袋田村に物産会社といへるお設け、製造家の名望あるものお挙げて其役員とし、折々諸国お巡廻して、濫造お戒め、製粉お教へ、其俵には俵毎に水戸産物粉蒟と記したる焼判お押し、若し法に背き粗品お密売するもの露顕したるに於ては、軽きものは製造お差止め、重きものは入牢申付るなど、厳重の取締法お設けし故、誰とて犯すものなく、能く事業お勉めしかば、製造頓に精良に趣き、産額も大に増したり、江戸にも亦一の玉会所といふお置き、其役員は袋田と交代して専ら販売の事お行はしむ、これより磽確荒廃の阻地は開けて生産の場となり、販路も益広まりて、水戸蒟蒻の名は大に世に著はれたり、