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茅窓漫録

かたくり(○○○○)病人飲食進みがたく、至りて危篤の症になると、かたくりといふ葛粉のごとくなる物お、湯にたてヽ飲ましむ、近歳一統の風俗となれり、最初何者のいひ出だしヽ事にや、是は本草綱目〈山草類〉王孫の釈名に出でたる、旱藕といふ草の根お製したるものにて、東国北国より多く出だし、奥州南部加州山中及越前より出づる物最上品なり、唐書方技伝に、開元末、姜撫言、終南山有旱藕、餌之延年、状類葛粉、帝作湯餅賜大臣、右驍衛将軍甘守誠能銘薬石曰、旱藕牡蒙也、方家久不用、撫易名以神之爾とあり、餌之延年といひ、陳蔵器の説に、長生不飢黒毛髪といふにより、かヽる風俗となりしと見ゆ、此草昔は堅香子といふ、一名猪の舌ともいふ、万葉集、〈第十九〉天平感宝元年五月十二日、於越中国主館、大伴宿禰家持作之攀折堅香子草花一首、〈◯歌略〉万葉目安に、堅香子花は、つヽじに似たる草なりとて、 小車の諸輪にかくるかたかヾのいづれもつよき人心かな、〈こが通音〉新撰六帖には、堅香子お読み誤りて樫とこヽろえ、木部に入れて、万葉下句お寺井のうへの堅かしの花と出だせり、此草の形葉は、和大黄の初生、または車前葉のごとく、一根にたヾ二葉生じて相対す、其葉に淡紫色の斑点あり、山生は四月頃葉間に茎立ちて、茎頭に六弁の紫花お開く、長五寸許、径一寸五分許、唯一茎一花のみ、俯してひらく、百合花のごとし、弁の末は上に翻る、希には白花もあり、根は白葱又は水仙のごとし、北国能登辺にては、此根お採り煮熟して食に供す、所在寒国に多く生ずる物なれど、今は諸国往々にあり、京都近辺は、叡山雲母坂篠原の中に多く生ず、嫩葉お摘みて漬物となし菜に充つ、又播州神出山、雄子尾、雌子尾の山中に多くある事、播州名所図会に載せたり、此根お採りて葛お製するごとくにし、餅とするお堅子(かたこ)餅といふ、越前にて多く製す、南都にての製、東府へ献上せらる、又大和宇陀葛屋藤助よりもおなじく献上す、此草諸国方言多し、京師にてかたゆりとも、初ゆりともいふ、東府にてかヾゆりとも、ふむたいゆりともいふ、佐渡にてかたはなといふ、延命長生の語より事起りて、危篤の病人一統に服餌する風俗となり、遂には進献供用の物となるも奇ならずや、