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古今要覧稿
草木
水仙水仙は花信風小寒三候にあて、梅つばきと共に、厳冬に花開き、その香も梅におとらず、盛りも久しきものにて、めづべきものなれども、皇国にて歌にも詠ぜられず、本草和名、和名類聚抄等にも載られざるは、この花の不幸なり、抑この花元より此国に自生多くして、人家園砌にも植置て、冬月のながめとし、盆にうへ挿花となし、金殿玉楼の上段に咲匂ふこと、余花の及ばざるもの也、これにも単弁重弁あれども、単弁のもの最勝れり、古へより図に画き、物に彫したるもの、皆単弁のものにて、祐乗の彫せし水仙は、時珍の五弁といへるも同日の誤なり、金盞銀台もひとへのもの也、大和本草にも、千葉お下品とすといへり、すべて花はひとへなるよしは、徒然草にもいへども、殊に水仙は単およしといふべし、又伊豆島日記に雲、三宅島新島には、水仙寒菊は道もせ垣根などに、おのづからありては草のごとし、霜の降ること希なれば、葉も花もいきほひよしといへり、さて、安房国も暖気にて自生殊の外にこえたり、さて花信風小寒三候に配したれども、其苗は九月頃より生じ、葉は二枝づヽ相対して、一株四枚のものなれども、五枚出るもあり、花は四葉の中より出て、初は帽おかぶりたる如し、其莟大きくなり、帽やぶれて花の開くもの也、其数多きは七八輪に至るもあり、少きものにても三輪より少なきはなし、早きは九月末より開くあり、おくるるは二月末三月に及もあり、信濃国人冬咲たる水仙の花お見て驚きて、我国にてはる咲に、江戸の水仙は遅きといひしとぞ、又月令広義に、水仙は雪中四友の一なり、又水仙の名のあるものは、なつ水仙といふものは、鉄色箭、又おらんだ水仙、じやがたら水仙といふものは、月下香なり、此類は其根の状は葉の状にて名づけしものにて、花の時節も、皆夏秋開くものなれば花信風には入がたし、