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芭蕉翁文集
芭蕉お移す辞菊は東籬にさかえ、竹は北窻の君となる、牡丹は紅白の是非ありて、世塵にけがさる、荷葉は平地にたヽず、水清からざれば花さかず、いづれの年にや栖お此境に移す時、芭蕉一もとお植ゆ、風土芭蕉の心にや協ひけん、数株茎お備へ、其葉茂り重りて庭おせばめ、萱が軒端もかくるヽ計なり、人呼て草庵の名とす、旧友門人ともに愛して、芽おかき根おわかちて、所々に送る事年々になん成ぬ、一とせみちのくの行脚思ひ立て、芭蕉庵すでに破んとすれば、かれは籬の隣に地お替て、あたり近き人々に、霜の覆ひ風のかこひなど、返す〳〵頼み置て、はかなき筆のすさみにも書残し、松はひとりになりぬべきにやと、遠き旅ねのむねにたヽまり、人のわかれ、芭蕉のなごり、ひとかたならぬ詫しさも、終に三とせの春秋お過して、ふたヽび芭蕉に涙おそヽぐ、今年五月の半、花たちばなの匂ひもさすがに遠からざれば、人々の契も昔にかはらず、猶此あたりえ立さらで、旧き庵もやヽ近う、三間の茅屋つぎ〳〵しう、杉の柱いと清げに削なし、竹の枝折戸安らかに、葭垣厚くしわたし、南に向ひ池にのぞみて水楼となす、地は富士に対して、柴門景お進てなヽめなり、浙江の潮三つまたの淀にたヽへて、月お見る便よろしければ、初月の夕より雲おいとひ雨おくるしむ、名月のよそほひにとて、先ばせおお移す、其葉広うして琴おおほふにたれり、或は半吹おれて、鳳鳥の尾おいたましめ、青扇破れて風お悲しむ、たま〳〵花咲どもはなやかならず、茎太けれども斧にあたらず、かの山中不伐の類、木にたぐへて其性尊し、僧懐素は是に筆おはしらしめ、張横渠は新葉お見て、修学の力とせしとなり、予其二つおとらず、隻此陰に遊びて、風雨に破れやすきお愛するのみ、ばせお植てまづにくむ荻の二葉哉