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玄同放言

山牡丹〈山橘附出〉本邦にても、近世牡丹お鐘愛すること盛になりしかば、種々の異名さへ負はして、吟味せざるものなかりき、されば宝永の比に至りて、この花お弄ぶこと、異朝唐宋の時に譲らず、当時春桃散人といふもの、牡丹論談一巻お著はしたり、こは宝永八年二月上旬の事なり、撰者の自序に雲、春の日の夕ぐれにさへなりぬればと読みたる人は、その花のふかみ草おしらぬ類なるべし、まことに紅白相まじへて咲き出づるさま、近来の人挙りて楽とせざることなしといへり、かくてその書にしせる牡丹四十三種なり、花毎に注釈あり、詳にして且尽くせり、巻尾に丹花四十三色也、独遊軒無会と写して花押あり、花合の会主なる歟、当時の流行想像るべし、寛永の巨菊、元禄の百椿、ちかくは寛政の橘、昨今の牽牛花と異なることあらじかし、おもふに欧陽氏牡丹譜に載するもの九十余種、こは銭思公が嘗集録しつるものにこそあなれ、花品叙には、永叔が視(め)お経る所、人の称するものお取りて、才に二十余種お出だせり、かヽれば我宝永の四十余種、寔に寡きにあらず、宝永お真盛にして、この花漸々に衰へたり、されば余〈◯滝沢解〉が総角のころまでは、駒込のあなた、西が原てふ処に、茶器お粥く牡丹屋とかいふものヽ別荘に、多く牡丹お植えしかば、俗に牡丹屋敷と呼び作したり、そが家号お牡丹屋といひつるも、牡丹お愛るによりてなるべし、これもはや夢と覚めけん、今は彼処に、さるものありとしも聞えず、海内の名産輻湊して、よろづに乏しからぬ大江戸なれども、今にして牡丹の生花お見んことは、三千歳に一たび花さくといふ優鉢羅花(うばらけ)よりもかたくなりぬ、