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甲子夜話
九十八
林蜂洲折簡往来の次でに、北沢の牡丹屋敷は君知るや否と、予〈◯松浦清〉知らざるお以て答ふ、又雲ふ、その花品数種版刻せし者あり、君見るや否と、予未だ見ざるお以て対ふ、又我郷に此編九十五巻に燭目掌果と雲る、武州玉川辺の村里お記す者お載せし中に、甲州道新宿の奥お高井戸と雲ふ近所に、北沢鈴木左内庭中牡丹多しと記せしが、正しく是なるべしと思ひしに、尋て林子より彼の版刻の摺本お贈る、展観れば花王の富貴恰も尽せり、但榻紙幅大にして縮写し難きお以て、分謄してその次第お綴る、林又曰、名花の品七百種お踰るは珍茲に止む、真に泰平の余化と雲べし、実に斯花始り自来未曾有なるべし、〈◯中略〉林又雲ことあり、曰年少の時、王子村飛鳥山の手前に、西け原と雲所あり、その処の豪農斯花お多く植て、牡丹屋敷と称し、春毎の見物群到せり、王侯貴人は其宅お借切にして終日の宴席とし、各家の紋幕お張て、雑人の入るお許さヾる日も有りき、然るお何つの間にか廃して、今は其処お知る人さへ無し、彼も一時なり、此も一時なりとや雲べき、流居士曰、かヽる好事さへも盛衰互にある、況んや朱家権門の栄枯老目の歴る所なり、