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古今要覧稿
草木
むべ〈うべ 郁子 薁実 漢名野木瓜 ときはあけび、〉むべは近江国蒲生郡奥島の産物にて、毎年十一月朔日、京都へ貢する也、蔓一すぢに二つも三つもなりたるお、藁にて包たる足高き折に入て奉る、〈其形状図(図略)のごとし〉此事いづれの御時よりはじまるといふことさだかならず、奥島供御人等が伝ふる所は、聖徳太子の御時よりといひ、或説には天武天皇御時よりといふ、共に信じがたし、さればこそ後水尾院年中行事には、いつより奉りそめけるにかと遊ばされしなり、又延喜式に近江より郁子お貢することお載られたれど、これは今のむべの事にや、真の郁李のことにや、さだかならず、供御人等が伝へし文安の綸旨に見へたる所は、今のむべのことにて有べければ、其文に例にまかせてと見えたるに拠ときは、その先より奉けるものなるべし、さて文字には郁子とも薁実とも書たれ共、ともに正しき名とはおもはれず、蘭山翁の説に、救荒本草にみえたる野木瓜といへるもの、今のむべなりといへり、其図説お按ずるに、此説荷担すべきなり、若水は、簡子おもて、むべにあて、白石先生は薁は野蒲萄なりといはれし、弘賢按ずるに、簡子はあけびなり、あけびとむべとは自ら別種なれば、如何有べき、さて我邦にて漢字お用る所は、中古以来、かならず其正名ならねども、仮借せる事あり、たとへば、欵冬おもて、春のやまぶきにかり用るがごとし、これ古人欵冬おやまぶきといへば、たま〳〵其名の同じきおもて、仮用ひたる也、是おもて漢名の当否お論ずべきにはあらず、薁は郁李の一名にて、共にむべといひ、野木瓜おもむべといひけるより、仮借せること有しなり、又漢名にも古今の差別ありて、一概に論じがたきことあり、猶下にことはるべきなり、〈◯中略〉 薁実献上候由緒申伝之覚一聖徳太子之御時、奥島庄之内へ御成行幸、それより此所お王之浜と申伝候由、其時奥島之内男子八人有之、夫婦、長命堅固にて罷在候旨に御座候、其時太子被仰候は、女等はめでたき者共なり、何故一家不残長寿堅固に在之哉と御尋被成候へば、夫婦之者共申上候は、私屋敷内箇様之菓実毎年生り申候お、家内給べ申候故、無病延命に罷在候かと申上候得ば、其菓実薁と御附被遊、自今後供御に差上候様にと被仰付候而、薁供御料として、奥島山お被下置候之故、隣郷へ山おおろし、山年貢お以、供御に仕候由申伝之事、一其後薁供御中絶仕候処、文安二年之比、御詮議被遊、夫より改献上仕候、御綸旨并御除書等頂戴仕、于今所持仕罷在候事、一信長公御全盛之比、人等山お御取上被成候而、供御料米壱石五斗に御定被成候由申伝候事、一郁子蔓御座候者、宮地又は人等之持林之内に御座候、猶御除地に而者無御座候事、一例年供御料米壱石五斗者、御地頭より御代々被下置、八人之者配分仕候事、一郁子供御料如此仕、折三合毎年差上候内、一合御取次生島殿へ納り申候、右之御祝儀、例年不同に御座候、一つ生りは鳥目百文、二つ生り三生り御座候へば、壱つ百文宛御増、御祝儀出申候、外に畳表拾枚は、毎年御取次生島殿へ遣申候事、一往古より人等八人之末孫共、相続仕、例年霜月朔日に調貢仕、生島殿より請取切手相渡り申候御事、  亥二月     郁子供御人等中