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木綿通考
吾皇朝にいにしへ棉有しお聞ず、唯万葉集巻三に、しらぬ火の筑紫のわたは身につけていまだはきねどあたヽかにみゆ、とあるお物にみえたる創とす、これ舶来の物なるべし、続日本紀に、神護景雲三年三月、始勅太宰府、歳貢棉、とあるも、唐山より齎わたせる棉お貢りし也、其後類聚国史に、延暦十三年七月、有蛮舶漂流至参河、其人以布覆背、〈◯中略〉とあるぞ、其種お伝へ来れる始なりける、然れども中頃の世に絶はてたりと覚しくて、夫木集に〈新撰六帖にも見ゆ〉衣笠内大臣の歌、〈衣笠内府は定家卿の門人にましまして、鎌倉実朝卿と同時にて同門なり、〉敷島のやまとにはあらぬから人のうえてし綿の種は絶にき、ともよみ玉へり、即延暦の世に植たりし種おさし玉へるなり、野語述説には、永禄天正の頃、始て棉種西域より渡り来て、今に百年余になりぬ、祖母嘗て語られしは、わが十五六歳の時、美濃の岐阜にて木綿といふ物お始て著たりき、当時は人々綺綾の如くに珍重したりしお、それより在在所々に多く植て、一般にひろまりたりと也、されどもいまだ紡織の法お悉さで、今日の精致には及ばずとみえたり、これ延暦より後ふたヽび棉種の伝来せるなり、但しこたびのは木綿には非ず、草綿にて、今の世に天下なべて物する綿すなはち是なり、敏成〈◯吉田〉按ずるに、貝原好古の和事始、及続和漢名数、伊藤長胤の秉燭談などには、文禄の頃渡り来れるよしみえたれば、〈秉燭談には、南蛮人来貢すと有、〉永禄は文禄の訛にも有べし、又右の書どもに、此おも木綿の事としたるはわろし、即今の世まで連綿して、歳々に繁り行める草綿なり、さるお木綿としも呼ならへるは、はやくより其名人の口実になりて、草綿にもやがて移して、称来れりし也、〈名物のうへには常に此類おほし〉五雑俎おみれば、棉花雖有草木二種、総謂之木綿花、ともあれば、彼邦の語も同じきと見えたり、さて真の木綿も希にはありとぞ、されど一二歳も経ぬれば、悉く消失ぬといへり、安斎随筆に、木綿は近年渡り来りて、所々に種る由伝へ聞けりと有り、諸国の人によく訪きヽて尋ねしらまほしき事なり、さて楢村氏が〈市郎右衛門長高といへり、天文永禄の頃の人なり、〉室町殿日記には、天文九年の条に、中間衆木綿三十五匹買取といふ事みえたり、〈永禄年中の事お書たるに、木綿一反代二百文ともあり、〉この文によれば、天文の頃既に渡り来れりとも覚ゆ、これも猶草綿なるべし、それより遡て、玄恵法印〈建武の頃の人〉の庭訓往来十月の条に、木綿一宛配とも見えしは、何れお指るにか定がたけれど、かの衣笠内府の歌にあはせて考れば、此等も木綿とはおもはれず、かヽれば草棉のこヽに伝はりしも、実は鎌倉の代などに、五山の純徒の、宋元より随来れるにもやあらむ、〈茶お栄西の伝へたる類とすべし〉書禹貢に、島夷卉服厥匪織具と、蔡沈が注に、木綿の事なりといひ、大学衍義補にも、此説によりて、島夷時或以充貢、中国未有也、中国有之、其在宋元之世乎といへれど、虞夏の世の卉服お木綿とは定がたし、枲麻葛の類なるべければ、これも五雑俎によりて、梁武帝の木綿皂帳など物にみえたれば、南北朝に権輿して、宋元の頃より盛なりと知べし、