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大和本草
六/民用草
木棉 棉布は異国より近古わたる、其種子は文禄年中に来る、朝鮮には洪武二十二年、大元より種来る由、東国通鑑にいへり、木棉なき時は、貧士賎民皆麻布おかさねて寒おふせぐ、近世木棉の種わたりて、南北ともに土地に宜しく、四民寒苦おまぬかる、誠に万世の利、群国の実宝也、明王は金玉おいやしみて五穀お宝とすと古人いへり、木棉も五穀に同じく宝とすべし、金玉にまされり、中華にも宋の末始て種お南蛮より伝へたり、兵瓊山李時珍諸説皆然り、然るに温公通鑑に、梁武帝の木綿皂帳の事おいへり、史昭が釈文に、木綿江南多有之、其形状うへ時お詳に雲へること、今の木棉なり、いぶかし、又本邦類聚国史に、桓武帝の御時、崑崙人木綿種おもち来ることあり、今の木棉と同物なりや、是亦いぶかし、斑枝(ぱんや)花は木なり別物なり、是も木棉と雲、本草にのせたり、是亦布とし、絮とす、つねの木棉は絮として久ければ堅し、斑枝花は久おへても堅くならず、ぱんやは蛮語なり、神書に木綿と雲へるは紙なり、棉花にあらず、今祝人綿花の糸お用て木綿繦とするは、古制にあらず、木綿手繦、日本紀允恭帝紀にあり、本朝賦役令曰、木綿は紙木皮也、順和名に楮お由布と訓ず、延喜式にも木綿は楮にて作るよし見えたり、木綿は無毒、子の油は微毒、灯にともせば目お損すと、本草にいへり、商家此油お菜油にまじゆ、食品薬品とすべからず、