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採薬使記
中/豆州
重康曰、八丈島よりあした草と雲ふ草お生ず、根葉ともに食ふ、是れお食へば、痘瘡おかろくすると雲、一名八丈草、又海峯人参とも雲ふ、光生按ずるに、八丈島は伊豆の下田より百里ばかり辰巳の方に当れり、此島にてあした草お専ら作る、他所にて蘿蔔牛房お作るが如く、常に五穀に雑へ〓とす、根葉ともに煮てさはし、飯に入て食ふ、又菜類にも製す、正月より九月頃までお旬とす、其味胡蘿蔔の如く、少し塩気ありと雲ふ、此島は常に塩風烈しきゆへ、あした草にかぎらず他の菜も、少く塩気ありと雲、葉の形ち前胡に似、また三葉芹にも似て、三椏三葉にして面は染青にして背は青白色なり、其葉光滑にして葉のへり細鋸歯あり、茎に少し赤き所あり、葉茎芹の香あり、此草四時凋まず、新葉旧葉相まじはる、嫩葉お取り食ふ、味甘く淡く佳なり、此草日暮に子お蒔く時は晨に芽お生ず、故にあした草と雲ふ、是れ煖国の産物なる故か、此草子種より三年お経て、細白花お開く形状芹の如し、八丈島の土人の曰、此草此島へ来り初て食ふ人は、殊の外気お上に頭痛などする、五七日とも食ひ馴れては害なし、故に島人も此国の人参なりと雲ふ、貝原氏は文献通考に載る処の鹹草お、あした草なりとす、然れども文献通考に、葉邪蒿に似たりとあるに合はず、松岡氏の曰、鹹草は、救荒本草に出す鹹蓬草なるべしと、又或説にあした草は本草湿草に出る都管草なるべし、然れども本草蘇容が説に詳に的当せず、